木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

家康は天皇の子孫? ~系図は嘘八百

2008年07月13日 | 大江戸○×クイズ
お題:徳川家康の祖先は天皇だった。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

徳川家康を初代とする徳川家は、松平家から来ている。この松平家は遡っていくと八代前の親氏(ちかうじ)という人物までたどり着く。親氏を初代とすると、家康は九代目ということになる。さて、その先からが不明である。系譜上は、親氏は、有親、親季、政義と遡れるのだが、この三人は実在がかなりあやしい。年代を辿っていくと、どうにも時系列的におかしいことが多い。結論から言うと、家康が実在しない三人を作り上げ、系譜を捏造した可能性が高い。この家系を遡ると、世良田、得川、新田、源とつながり、貞純親王を通じて、56代清和天皇に繋がる。すなわち、家康の祖先は天皇家だったことになる。系図というのは、権力者が好きに書き換えてしまうことが多く、今のように調べる手立ても多いわけでなかったから、偽物であってもさっぱり分からなかった。よく物の本に家康は、最初藤原姓を名乗り、後に源氏姓を名乗った、とあるが、これは、源のほうが藤原家よりも天皇家に近く、格が上であったため、一気に源氏姓を名乗れなかったからである。源氏姓は、足利家所縁で、藤原姓は近衛家所縁であったため、家康は、近衛前久という人物に系図作成を相談している。前久に、系図のこの辺りに適当な人物を挿入するのがよかろうと朱引きしてもらい、家康は前久に礼金を支払っている(将軍家准摂家徳川家系図東求院殿御書)。1602年2月20日のことである。
このようなことは多々あり、秀吉も当初(1582年)は、「秀吉所世、元これ、貴きに非ず」(大村由己著「惟任謀反記」)と自ら言っていたのにも関わらず、
三年後の天正十三年には、
「その素性を尋ぬるに、祖父祖母禁囲(宮中)に侍す。(中略)大政所殿(母親)、幼年にして上洛あり。禁中の傍らに宮仕えすること両三年、下国あり。程なく一子誕生す。今の殿下これなり」
(大村由己著「関白任官記」)
と、まるで、天皇の落胤であるかのような書き方に変えている。
家康以降のものは、種種の記録も残っており、しっかりしているが、それ以前のものは、眉に唾をつけたものと見たほうがいいようである。
ちなみに、家康が徳川を名乗ったのも、新田所縁の得川に関連付けを試みたからである。
答え:系譜上では○。実際は嘘に決まってます→×
(徳川美術館 原史彦氏作成系図による)
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徳川家康三方ヶ原戦役画像~家康31歳のときの絵ということである。