木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

関ケ原の合戦場 ~Battlefield of Sekigahara

2008年07月15日 | 大江戸○×クイズ
問い:天下分け目の合戦のあった関ケ原は観光地になっている。ウソ? 本当?  答えは、文末に。

先日、所用があって関ケ原へ行った。帰り道に天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の合戦があった場所に足を伸ばした。平日であったからか、訪れる人もなく、すれ違う観光バスも素通りしていく。この日は、関ヶ原の歴史資料館も休業だったからかも知れない。私と同じように、休みであることを知らないで来た中年の欧米人が舌打ちをしながら、去っていった。
合戦場というものは元来愉快なものではなく、観光地ではない。愛知県内にも、長久手や、小牧、桶狭間などの合戦上があるが、どこもうっそうとした暗さを感じさせる場所である。ただ、暗さだけではなく、歴史の持つ重みというものも感じさせる。松尾芭蕉が奥州高舘を訪れ、有名な「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」という句を詠んだのは、元禄六年(一六八九年)。芭蕉は、この地で没した源義経のことに思いを馳せたのであるが、訪れる者もなく、ただ静かな合戦地跡にたたずむと、芭蕉ならずとも、盛者必衰の理を覚えずにはいられない。
合戦地は、知名度の割には実際に見たことがない人のほうが多いのではないだろうか。日本の合戦上、最も有名な合戦である関ケ原の戦いがあったのは1600年9月15日。朝から霧の立ちこめる視界の悪い天気状況の中、東西両軍は二時間以上も、にらみ合いを続けたという。
石田三成は、笹尾山という小高い丘のような山に陣地を設けた。
最も頼りにしていた鬼の島左近を左翼最前線に置き、その後ろを島津豊久、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家といった歴戦の強者で固め、右翼に小早川秀秋、更には、東軍を後方から囲むように毛利軍と吉川軍を擁した。
一方の家康は、最前線に福島正則、島左近の正面には黒田長政を置き、自らは全体の中位に位置した。
芭蕉が武士であったときに仕えていた藤堂家は福島軍のすぐ後ろに、また、安政の大獄を主導した井伊家も、藤堂軍のすぐ後ろに陣を張っていた。
よく指摘があるように、確かに、この陣形では、西軍有利と言ってもいいだろう。
右翼の松尾山に配置した小早川軍の寝返りにより、一気に合戦の形勢は東軍有利になる。歴史に「もし」はないが、寝返った小早川軍が、たとえば、東軍後方にいた毛利軍の位置にあったら、などと考えてしまう。この位置だったら、あそこまで形勢が決定的になることはなかったのではないだろうか。
三成が陣取った笹尾山は、合戦の石碑が建つ位置から歩いて5分程度のところ。整備され、ステップもつけられている。
酷暑の中、ゆっくりと、笹尾山に登る。強い日差しの中では流れるほどの汗が出るが、日陰に入ると、それほど暑さを感じないで済むのがありがたい。広すぎるステップに苦労しながら歩調を合わせ、登っていくとあっけないほど早く山頂に着く。10分も掛からない。丘程度の高さしかなくても、回りは平地であるので、よく見渡せる。そこには、両軍の布陣図があり、音声テープによる説明があった。
ここで、三成は、何を思ったのであろう。
400年の月日が流れては、戦いの痕跡はもう跡形もない。視野の先に、先ほど通った合戦の石碑が微かに見える。後は、田園風景の中、風が通り過ぎるだけであった。
答え:△~× (観光地かどうかは微妙です)
合戦のあった辺りは、一面の田園風景  眩しい青空の下、ぽつんと建てられた石碑。