木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

徳川御三家とは

2008年07月29日 | 大江戸○×クイズ
問い:徳川御三家は、将軍の味方である。 ウソ? 本当?  答えは、文末に。

徳川御三家というと、どんなイメージであろう。幕府のよき理解者、補佐役といったところであろうか。
こういうイメージはどうだろう。

徳川秀忠さんは、チェーン展開する日本で一番大きい老舗旅館の二代目跡取り。
父親の家康さんは、子宝に恵まれていたので、各支店に子供を主人として送り込んだ。早世する者もあり、家康さんが元和二年四月に亡くなった時点で残っていたのは、五店舗に留まった。つまり、越前67万石の松平忠直、越後福島75万石の松平忠輝、尾張清州53万9500石の徳川義直、駿河・近江50万石の徳川頼宣、水戸25万石の徳川信房さんの5人であった。忠直さんだけは、家康さんの孫にあたったが、残りはみな家康さんの子供、すなわち二代目と兄弟である。
各支店に散らばった兄弟は、二代目にライバル意識を燃やしていた。そこで、秀忠さんは、「俺が社長だ」と権力を示すために、大鉈を振るうことにした。自分の子供である忠長さんを、抜擢人事。親の依怙贔屓だと言われても気にしない。その一方、信宣さんに和歌山に転勤命令。父親ゆかりの駿河に息子の忠長を送り込むことと、転勤辞令を出すことで、社長としての威厳を示した。反対勢力にも示威行為を忘れない。父親の家康さんが亡くなると、反対派を左遷させ、社業の安定化を図った。


家康は、御三家に限り特別の厚遇を与えようとしたたわけではない。この時期は、戦国の風潮が抜け切れていない時期であり、ともすれば、血を分けた兄弟間においても相続争いが戦に繋がりかねない時であった。それゆえに、家康は家督争いが起こらないように慎重に子供に所領を分配した。
家督が安定してきたのは、家光の頃であり、その頃に御三家という考えも現れてきたと言える。
先ほどの例を引くと、創業者の後を継いだ二代目社長に、力を持って対抗しようとした同族者がいたが、二代目、三代目は、それを力を持って制したので、その後は社長の顔色を窺う者が多くなった、というところであろうか。
家光が「自分は生まれながらの将軍である」と宣言したのは、そう宣言することによって、自分の地位をアピールしたのである。後々は、いちいちこんなことを宣言しなくても分かり切った事実になっていたのであるから。
家光以降は、将軍は宗家から輩出することが定着し、御三家も補佐役に徹するようになっていく。
今度は口うるさい御三家の藩主が現れるようになった。
水戸の光圀、斉昭などである。
特に斉昭の天保の頃は幕閣中心の政治ができあがっていたため、御三家はオブザーバーとしての位置づけでしかなかった。水野忠邦などは、当初斉昭の水戸においての政治に一目置いていたが、次第に疎んずるようになっていった。
御三家というのは、譜代大名の代表でもないし、段々微妙な立場になっていく。
日米和親条約を幕府が朝廷に許可を得ずに締結した際も、斉昭を中心とした御三家が時の大老井伊直弼に直談判に行くが、直弼は聞く耳を持たなかった。
これも、当時の政治の体制からすると、無理からぬ話で、既に政治の実権が将軍から閣僚に移っていたことを示す例となっている。
鈴木一夫氏は、著書「水戸黄門」の中で、御三家についてこう記している。

三家には、幕府政治のうえで何の権限もないとはいえ、将軍や幕閣にたいするプレッシャーとしての存在意義はある。たとえば、批判的精神が旺盛で、はっきりとものをいうことをもはばからない人物が三家の藩主になった場合、将軍や幕閣のあいだに微妙な空気がかもし出されることがある。
御三家も、一大名と変わらない位置づけになってしまったのである。
御三家の中で水戸家は、特殊なポジショニングであったが、それについては、機会を改めたい。

答え:△(あんまりいい設問ではありませんでした)

「将軍の座」 林董一(人物往来社)
「徳川御三家付家老の研究」 小山 譽城(清文堂)
「徳川将軍家」(歴史読本増刊92-8) 新人物往来社
「水戸黄門」 鈴木一夫(中公文庫)  

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