木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

壮士の墓~咸臨丸の災難・清水港

2010年09月15日 | 江戸の幕末
菅VS小沢の勝負は菅総理の勝利をもって終結したが、敗れた小沢氏も表面上は、にこやかな笑みを絶やさないでいた。
話し合いや選挙で結果が得られるところが民主主義のよいところだ。
江戸幕府から明治政府への移行も一部の反乱軍を除いて、平和裏に成されたという表現を多々見受けるが、決してそんな綺麗事で済まされるものではなかった。

先日、静岡の清水港の近くを走っていると「壮士の墓」という文字がナビに現れた。
さっそく車を走らせると、その墓は咸臨丸の船員のものであった。
事の経緯は、こうだ。

慶応四年八月一九日夜半、榎本武揚は品川港を出航し、箱館を目指した。開陽、回天、蟠竜、千代田形の軍艦四隻、神速丸、長鯨丸、咸臨丸、美加保丸の運送艦四隻の榎本艦隊である。艦隊は品川から房総沖を通って仙台へ向かう予定であった。
出航の際には悪天候が予想されたが、翌日は晴れ間が見えた。その艦隊には、松平定敬、元陸軍奉行の松平太郎、渋沢成一郎以下、彰義隊の残党、伊庭八郎率いる遊撃隊、新選組など二千余人が乗船していた。中には澤太郎左衛門、松岡磐吉のように長崎の元海軍伝習所生も混じっていた。
しかし、艦隊が犬吠埼に差しかかる頃、猛烈な嵐に遭遇し、美加保丸は鹿島灘に沈没、咸臨丸は救助の蟠竜丸に伴われて下田から清水港に回り、修理を行っていた。
清水港に回ったのは徳川宗家のいる駿府に行き、降伏するためだったとも言われている。
一方、咸臨丸が下田から清水方面に向かったと方を受けた政府軍は艦隊を進め、清水港に着く。
咸臨丸の副館長・春山弁蔵は白旗を揚げて降伏を試みる。船員は多くが上陸していたし、咸臨丸はマストを折って、自力航海不能となったときから、交戦の意図を失っていた。
乗り組んだ政府軍は榎本隊の意思を無視して、そのほとんどを斬殺してしまう。
さらにひどいのは、海中に投げ捨てた死体の引き上げ、埋葬を禁じたことである。
江戸時代、死罪に処せられた罪人が埋葬を禁止されたのと同じ理屈であり、上野の彰義隊の死体も当初は投げ捨てであった。
もっとも、この禁止令には異論もあって、徳川側が政府に遠慮して自粛したという説もある。

この死体を自らの危険を冒して埋葬したのが清水の次郎長である。
次郎長が引き揚げたのは、副館長であり、長崎海軍教習所の一期生でもあった春山弁蔵と鉱蔵の兄弟、加藤常次郎、今井幾之助、長谷川清四郎、高橋与三郎、長谷川得蔵の七人。
後日、次郎長の功をねぎらい、墓の文字を書いたのが山岡鉄舟であった。

榎本艦隊は反対勢力には違いなく、その中には薩長からすれば、憎き会津藩士や新選組隊員なども含まれる。
けれども、日本古来の美徳とされてきた思いやりや武士道と言われてきたものは、この状況からは全く消え失せてしまった。
政府の裁断とはいえ、あまりにもひどい仕打ちである。
それゆえに、次郎長の行為が美談として伝承されたのであるが、勝敗がついてもノーサイドとならないのが戦争である。
繰り返して言うようだが、幕末~明治は決して無血革命などではなかった。



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