野営場先はこうした状況のため、通行が出来なくなっています。
野営場先はこうした状況のため、通行が出来なくなっています。
本日の高住神社の状況です。
◆大雨(北部九州一帯に大雨注意報・警報)
◆18℃
お盆はずっと雨続きと天気予報が言っていましたが、思った以上の大雨に見舞われ驚いています。
朝早い頃がピークで、今は少し落ち着きましたが、野営場~青年の家区間で道路冠水が起きていたりと集中豪雨となりました。
境内の沢が溢れそうなほど激しく流れています。これでも落ち着いたほう。
濁り水になったら崩落の前兆というので、茶色い水が流れている場所には近寄らないようにしましょう。
この様子ですので、水汲みをされる場合は、雨が止み水量が落ち着いてからお汲みください。
(大雨直後は水源に土砂混じりの雨水が流れこんでいるため、飲み水に適しません。)
日田朝倉地方・八女地方など筑後川上中流、矢部川など氾濫の懸念があります。
その他地域においても被災に遭わないよう気をつけてお過ごしください。
本日の高住神社の状況です。
◆雨
◆20℃
6月下旬に北岳下山中に起きた遭難事故で、遭難者の救助にあたった男性に田川警察署より感謝状授与が行われたと読売新聞に掲載されました。
(画像は新聞切り抜きより)
私たちも遭難救助に少し携わりましたが、怪我ひとつなく明るいうちに救助されて良かったと感じています。
この遭難は、北岳下山時に道を間違えて裏英彦方面へ下ってしまったことによるもの。
高住神社に待機していた遭難者友人のスマートフォンに送られた本人の位置情報を元に、おおよその見当をつけて救助者が向かったのが功を奏したと言えますが、山中なので地図アプリの精度も低く、また目印となる目標物もないので救助活動には相当難儀した様子でした。
私は素人なので語ることはできませんが、新聞記事に記載されている県警からの注意によれば、
▽迷った場合は元の道に引き返す
▽戻れない場合は警察に通報する
▽むやみに動かず体力を温存する
とのことで、今回のケースは警察への「通報が行える状況」だったことが良かったのかなと思います。
逆を返せば、『電波の通じない状況』が容易に起こりうること。
電波の届かない山中だった、電話のバッテリーが切れた、怪我をして電話を掛けられない状況となった、などなど。
不測の事態とはいつでも隣り合わせと想定した上で、登山活動を楽しんでください。
7月28日(水・土用丑の日)に、夏越祭を執り行いました。
昨年に続き、今年もご案内をした時点で新型コロナウイルスのまん延防止措置が発出されていたので、祭典は神職のみで行い、一般の方は時間をずらしてご参拝いただき、個々でお参りしていただきました。
こうした状況にも関わらずお越し頂きました方々には、高住神社名物「無病息災ささ湯」と夏越祭限定「冷やし甘酒」のふるまいでお接待を。
冷やし甘酒はミニ冷蔵庫に入れてセルフサービスでお取りいただいています。
もしかしたら今度の三連休までお出しできるかも知れません。
お参りの際はどうぞご自由にお召し上がりください。
写真は夏越祭のお供えです。
以前も書いたのですが、夏越祭は茅の輪くぐりや人形祓いなど、水無月祓の要素を組み込んだ夏祭りの呼称で、祓えの神事を中心に行います。
インターネットで『夏越祭』と調べてみると、検索上位のほとんどが福岡県の神社でヒットするので、福岡県域で使われる呼び方なのかも知れません。
高住神社では、祭典というかたちで夏に多い病気や災厄から逃れられるよう御神前に祝詞を奏し上げ、祓えの儀として茅の輪くぐりを行います。
神社によっては庭内に祓所を設けて大祓の儀式を行い、神前では神事を行わないところもあるので(古儀ではそう記述されています)、他の神社さんと比べて違いがあるかと思いますが、どのような手法をもって不可知な罪穢れを祓うかが、この神事の主題であると言えます。
この不可知な罪や穢れというのは、『知らず知らずのうちに犯した罪や身についた穢れ』というものであり、祝詞に用いる古語で「ゆくりなく」=「意識せずに・思わぬうちに」犯している罪という言葉で表しますが、意識せずに犯した罪とは何ぞや?というのは、実はとても難しいテーマなのです。
嘘をつく、人を貶める、こういった行為は故意に行うことが大半ですが、その意図がなくとも誰かを傷つけてしまうこともあるかも知れません。
いかに正直で高潔な人物であろうと、もしかしたらその発言や行動が別の誰かにとっては眩しく映り、嫉妬や劣等感を刺激してしまうことも・・・。
以前、初任神職研修の際にこれについてディベートを行った際、「喫煙は罪か?」という問いを投げかけた方がいました。
健康を害する。これが第一の理由で、次に副流煙による受動喫煙で他人に迷惑がかかるというもの。つまり罪ではないかと。
しかし国家が納税対象として保護している広義では国家事業であり、適正な用量であれば問題はなくストレスという精神的負荷を解消してくれるといった意見も。
それなら飲酒もそうではないのか、アルコールは度を過ぎると健康を害する。しかし酒は供物につきものだから害ではない・・・と議論は広がり、結局答えは出ませんでした。
現代の感覚と、大祓が成立した中世では、社会的な善悪の観念が違っていることから、全て同列に考えることはできません。
大祓詞の元である中臣祓には、天津罪と国津罪と挙げられていますが、稲作を阻害する行為・未開の病気・人倫道徳に外れた行いと、現代にそぐわない内容も含まれています。
それを罪としてしまっては、現代を生きる我々にとって誰かへの生きづらさを露呈することになってしまうので、内容としては不適切であり、現在の神社本庁の用いる大祓詞から外れているのもそうしたことなのだと思います。
この「知らず知らずに犯した罪穢れ」という問いは、社会悪という共有概念ではなく、各々の心にある「内面への問題提起」であり、もしかしたら誰かを傷つけたかも知れないという反省と、気持ちが落ち込んでいる原因があるならば取り除いてくださいという祈念による祓除の二面を表している、自力と他力の両面による必要性を問いているのではないでしょうか。
大祓詞の文末、罪という罪は祓戸四柱の神によって速川の瀬から大海原へ、荒潮の渦潮に呑み込まれて根国底国に運ばれ、最後は何処へとなくさすらわれ罪はなくなった、跡形なく消え去ることで清まったのだと罪穢れがなくなる過程を説明しています。それは物語化することでイメージしやすくなり、言葉に出すことで身体から観念を発現させる。これが言霊というものだと思います。
ですので、『知らず知らずについた罪穢れ』というのは他人に求めるものではなく、"自分の内面に求めるもの"だと考えたら良いのではないでしょうか。
過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられると言います。自らのために自戒と自省をするのが「祓い」なのだと思います。
自身の行動によって祓いの機能がうながされ、心身の清浄さを取り戻すというのが大祓の意義であり、その機能を認識しやすいよう体験儀礼にしたものが茅の輪くぐりや人形による祓えの儀式なのだと思います。
上の写真は夏越祭のお供え物。島原素麺のお供えが届いたので三方に盛り付けました。夏らしいお供え物。
こちらは涼を呼ぶ風鈴。
空中を這わせた電源コードの隠し技。
それぞれ100均のガラス風鈴と陶製風鈴ですが、音の味わいが違うので聞き応えがありますね。
風鈴の先にある冷蔵庫に冷やし甘酒が入っていますので、ささ湯とともにお召し上がりください。