高住神社公式ブログ

英彦山豊前坊高住神社の公式ブログです。

1月15日(金)の様子

2016年01月15日 11時51分29秒 | 日別天気・交通情報

本日の高住神社の状況です。

◆晴れだけど日陰で寒い

◆-2℃

 

今日は正月15日、小正月。

早くも月の半分まで過ぎてしまいましたが、正月忙しいのは寺社だけでなくなった昨今。

家族そろって正月らしい落ち着いた正月を迎えられたでしょうか?

 

初詣・門松・鏡餅・・・と主だった正月行事とは別にある“小正月”とは何だろう?と思い、簡単ながら調べてみました。

まず、民俗学的には元日から松の内までを「大正月」といい、年のあらたまりとともに年神(としがみ)という来訪神を迎える期間とされています。

常緑樹である松を門口に立てて年神を招き入れる道標とする、これが門松の原型。

以前にも書きましたが、月の末日にあたる三十日(晦日・みそか)を古来は「つごもり」と呼び、「月隠(つきこも)る」の略=月の隠れた夜、つまり新月間近ということ。

旧暦では1日は新月から始まり、“ついたち”とは「月立ち」、月が始まるときを指すのです。一日の異称である朔日(さくじつ・ついたち)の“朔”は新月を意味します。

新たな年明けに依り代となる門松を立てて年神を迎え入れ、年賀を寿ぐ期間が大正月というわけです。

では、小正月といいますと・・・

上の通り旧暦で考えると、月がめぐってちょうど満月にあたります。

農耕中心の生活であった時代には望月(15日頃)に神祭りが行われており、それゆえ新暦が採用され年始が朔旦(1日)に移った後でも、元来の正月を“小正月”として残しているのです。

ということで、本来は一月満月に行われていた正月行事が、時代の変化に合わせて新暦通りの一日に祝うようになったということなんですね。

これが大正月と小正月の違いです。

 

では、小正月には何もしないのかということはなく、ちゃんと正月行事があるのです。

左義長(さぎちょう)・どんど焼き、鳥追い、粥占、なまはげ。

なまはげは里に幸をもたらす山の神の使い、鳥追い・粥占は豊作祈願に関わるもの、左義長・どんど焼きは年神を送る行事として、こうした地方色ある小正月行事が全国に分布されてます。

それでは福岡はというと、正月飾りを焼くいわゆる左義長・どんど焼きを「ほっけんぎょう」「ほうけんぎょう」と呼び、主に筑後地方周辺で使われるようです。

火を焚くことで病魔や悪鬼の侵入を防ぐ意味があるそうで、7日に行うところが多いようですが、大正月の締めであり、おそらく年神の送り火的な意味も含まれているのでしょう。

同じ福岡でもこうした火祭りを「さぎっちょう」「鬼火」「鬼夜」とも呼ぶ地域もあり、太宰府天満宮の「鬼すべ」、大善寺玉垂宮の「鬼夜」など七日行事も関連しているのかなと思うのですが、どうでしょう?

 

さらに地域を限定して、英彦山や津野あたりに伝えられる小正月行事を紹介します。

「餅粥(もちがゆ)」・・・朝小豆飯の中に正月に搗いた餅を小さく切って炊き、神仏に供えてから頂く。

「穂びけ・粥だめし」・・・この飯を炊くとき、農作物の名を書いたこよりをワラの先に結んだものを釜のフタに載せ、炊きあがった頃にはすっかり蒸気を含んでいる。これをモミ殻にからめて、ついたモミ殻の量によって農作物の豊凶を占う。

「ぶち」・・・餅粥を終えた釜の火で竹を焼き、牛のムチを作る。牛の尻が腫れないという。

「成木責め」・・・果樹の豊作を願い、幹を斧や鎌など刃物で叩いたり小さな傷をつけ、“成るか成らぬか、成らねば切るぞ、今年はならねど末(すえ)は成る”と唱える。餅粥を塗り唱える場合もある。

「トヘトヘ」・・・14日の晩、青年や子どもが手製のワラ製品を持って民家に出向き、盆に載せたそれを玄関先にそっと置き『トヘトヘ』と言って隠れる。すると家の人は「とへが来たき祝っちゃらな」と、品物と引き換えに盆の上に餅を置く。姿を見られてはいけないので見つからないよう餅を取って逃げるところを、家の人が水を掛けてくるので、ひっかけられないよう逃げるのがスリルだった。この餅を食べると夏痩せしないという。

「もぐら打ち」・・・同じく青年や子どもがワラの小束を持って屋敷の地面を打って周る。そのときに「もぐら打ちは十四日、もぐら打ちは罪(とが)がない」と唱えた。

「豊前坊参り」・・・津野の集落によっては、15日早朝に各戸の主人が寄って豊前坊に参った。帰ってから元方の家に集い、お神酒を戴き祭りをした。

参考:《添田町史・下》 《津野 民俗資料緊急調査報告書》

 

こうした年中行事が昭和初期までは続けられていましたが、子どもの減少や過疎化に伴い次第になくなっていったようです。

津野出身の70代男性より聞いた話、トヘトヘには鍋取りを作って持っていったと。鍋取りとはワラを小判型に編んだ鍋つかみ。慣れれば子どもでも編めたようです。「トヘトヘー!」と叫んで物陰に隠れ、コソッと餅を取りに行くときに見つかって水を掛けられた者は餅をもらう権利をなくしたと、懐かしい思い出を語ってくれました。

『昔はワラ一本すら大切にしていた。ワラは色々な物に利用できたからだ。ワラが手に入らない者は冬場に英彦山にカヤを取りに行った。雪が降るとカヤの枯れ葉が雪に埋もれて落ちてスッと一本だけ残る。これを刈って持ち帰り、屋根を葺いたりした。』

体験した方の話を聞くと、書物で読むとは違いその背景や心情など伝わってきて、今でも晩になればそこかしこの民家から「トヘトヘー」と聞こえてきそうな、そんな雰囲気さえ。

こうした消えゆく伝承をただ記録として綴るばかりですが、そこに生きる人々の様々な願いがこうした行事に込められていたのかと思うと、時代に忘れ去られ記憶から消える前に少しでも残せるものは残せたら、と思います。

コメント
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