高住神社公式ブログ

英彦山豊前坊高住神社の公式ブログです。

令和元年度 夏越祭

2019年07月29日 10時25分40秒 | 神社からのお知らせ

令和元年、7月27日土用丑の日、豊前坊高住神社の夏越祭を斎行いたしました。

当日の様子を写真でお伝えいたします。

 

 

 

「夏越祭(なごしさい)」はいわゆる水無月の大祓と同じく、人形と茅の輪くぐりを行う夏のはらいですが、大祓式と異なるのは通常の祭典と同様に社殿内で行い、祝詞を奏上する点。

大祓式は社殿ではなく庭内に祓所を設け、列立した職員・参列者に向けて祓諸役が大祓詞を読み聞かせる宣命の儀式ですから、夏越祭というのは水無月の大祓の意味を継ぎながらも神前に悪疫退散・無病息災を願うまつりということになります。

夏越祭という呼び方は田川地方では使われていますが、どうやら地域色の強い呼称のようで、福岡県神社庁が出している暦には夏越祭についてこう記述されています。

"夏越祭 ー 茅輪くぐり、人がた祓の神事のほか、旧田川郡赤池町では牛馬願と称して、たいまつをともし鉦太鼓の囃子で彦山川に沿って蔵元に至り角力を奉納する。"

このことからも、大祓要素を組み込んだ夏祭がこの地域に伝わっているということでしょう。

 

下の書類画像は高住神社の諸事について提出した神社明細書です。

これによると、七月土用丑の日に行われるおまつりは元来「虫除祭」だったようです。

 

添田町史・下巻第6編《民俗》、七月の頁に

「田植え後、豊前坊参りといい、各戸別々に高住神社(豊前坊)に毎って虫封じの護符を受けて帰り、自分の田の端に立てる。(後略)」

とあり、この虫封じというのは疳の虫ではなく、ウンカやメイガといった農業害虫のこと。

近郷では田植え後の休みを「サナボリ」または「植え満て」と呼び、各区(各組)で神職を呼んでおまつりと直会を行った。「皆作(かいさく)」とも呼んでお籠もりをする組もあった。

このサナボリには組内で代表者を立て豊前坊へ参らせ、虫風防除祈願をして札を受け、持ち帰えった札を水口に立てたという。

今のように農薬のない時代は、水田の害虫駆除のために油を用い、水面に石油を撒き、竿竹で稲苗についたウンカをはたき落とし、油にからめることで殺虫した。

また、夜間に区内総出で松明を持って歩き、田の間を回って虫を集めて川原などで焼き殺す「実盛送り(さねもりおくり)」を行うことで駆除したという。

それだけ虫害は古くから講じられてきた悩みであり、田に災いが起きぬように豊前坊に詣でて彦山ガラガラや虫除けの札を求めたようです。

 

民間では土用、特に丑の日は重用され、着物を干すと虫がつかないとか、またこの日に薬草を採るとよく効くとされ、英彦山の坊中ではこの日に神様に御神酒をお供えし、豊前坊に参るという習わしがあったとか。

夏の土用入りはちょうど梅雨明けと時期が重なり、成長する稲に合わせて田の草取り・害虫駆除などの作業に精を出す頃。八朔のまつりには「田ほめ」という予祝行事を行い稲の生育を願います。

 

こうした稲作と虫除け、豊前坊と夏の行事の関係性を見るに、昔は梅雨時(6月~7月初)が田植えの適期であり、田植え終了を意味するサナボリ(植え満て・皆作)、梅雨明けと重なる土用入りから刈り入れまでの間には生育祈願(虫追い・虫除け、八朔、田ほめ)といった行事を行うなど(7月中~8月初)、田の無事を祈る稲作中心の夏まつりとして、虫除祈祷が行われたのでしょう。

英彦山や津野は高冷地のため、日照時間の関係から平地に比べ田植えを早く行います。そのためサナボリといった田植え行事も他所よりも早く、青田に虫のつく時期から虫除けの祭を決めた結果、7月土用の丑日が相応しいとなったのかも知れません。

 

この虫除祭がいつの頃からか夏越祭と名を変えていたというのは、おそらく稲作主体の生活基盤ではなくなったことによると思われます。

神道辞典によれば、夏越の祓には牛馬を川や海に連れて行って遊ばせる風習があり、人間の祓の観念を家畜にも適用したとされますが、私見としては夏負け予防に牛馬の慰労を兼ね水行させる意味もあったのではないかと思うのですが、豊前坊は牛馬の守り神であるとされるように、そうした性格から牛馬の祓、牛馬願≒夏越祭を行うようになったのではないでしょうか。

いずれにせよ、農業中心であった時代には個々の休暇という概念はなく、集落全体で何かの節目に一斉に休む、節句や祭事を理由に作業休めに当てがったようですから、土用の丑日もひとつの作業の区切りとして当てたのだろうと、祭りの名が変わろうがかつての農事の休暇日としてそのまま引き継がれたのかも知れません。 

以上のように、祭りというのは日常(ケ)にあって節目(ハレ)をもたらすもので、それは休暇であり、娯楽であり、節(せつ)でもあったわけです。

 

現在はかつて虫除祭だった事実も過去となり、夏のはらいの意味合いが強くなりましたが、参拝者の言によれば茅を持ち帰り牛馬に食べさせると安息と云い伝えられることから、人畜を祓う夏越の祓であり、また炎夏の最中に精魂出す作業の手を止め、夏負けせぬようしばしの休息日とした節目の意味であったと、私なりに考えてみました。

 

 

* * * * *

 

長々となりましたが、「昔は〇〇でしたが、今は〇〇となりました。」と済ませて終わる話かも知れませんが、それではなぜ土用の丑の日となった理由も分からず、シンプルながらそこには先人たちの生活のリズムや祭事(節)の意味があっただろうと、そうした祭りの本質を繋ぐのが我々の役目だと感じ、仮説を立ててみた次第です。

村祭りにたずさわるとき、継承する人員の減少や生活様式の変化によって祭りの本義が伝わらず廃れていくこともあり、悲しけれどどうすることもできないもどかしさを感じることもあります。

祭りの根底には、先祖や先人たちの生活の中で育まれてきた願いや祈りがあり、形態が変わり失われるものがあろうと、そうした思いは何らかのかたちで伝えてゆきべきと思います。

祭りに参加することで一人ひとりが文化を受け継ぎ、その意義を識ることで失わずにすむものがあります。

先祖や先人たちが大切にしてきたものを、中今を生きる私たちで大切にしていきましょう。

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