高住神社公式ブログ

英彦山豊前坊高住神社の公式ブログです。

諫早・雲仙地方と《四面宮信仰》・中篇

2021年05月11日 17時29分00秒 | 豊日別神考察

長いので中編と後編に分けました。

前編はこちら

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島原半島の中央にそびえる雲仙岳(1,483M)は、普賢岳・妙見岳・国見岳を中心に、大小二十以上の山々から構成される火山です。

活発に活動する火山として知られ、1990年から1995年にかけて島原地域を襲った「平成の大噴火」の大規模火砕流の凄まじさは、爪跡の悲惨さが物語っています。

その際に生成された溶岩ドームが後に「平成新山」と名づけられ雲仙岳最高峰となったことから、自然エネルギーの強大さが幾ばくかを理解できることでしょう。

現代においてなお活動し続ける火山雲仙岳は、古代においても格別の信仰を集める山でした。

 

雲仙と豊日別神を繋ぐのに、いくつかのキーワードがあります。

「温泉(うんぜん)」 「渡来人」 「山岳信仰」

諫早神社が「四面宮(しめんぐう)」と呼ばれていたことは前編で説明しましたが、四面宮の大元は雲仙岳にあり、それが現在の温泉神社(うんぜんじんじゃ)です。

御創建は大宝元年(701年)、僧行基によるとされています。天草から雲仙の噴煙を見た行基は求法の地として訪れます。祈願を続けながら山の主を尋ねると、十丈の白い大蛇が現れ、行基を見るなり四面の美女へと姿を変じました。行基が何者かと尋ねると、九州の守り神であると答えたのち輝いて消え去り、このことを時の天皇であった文武天皇に報告したところ、天皇は九州の守り神を祀る寺社を建てよと行基に命ぜられました。それにより大乗院満明寺と四面宮を開山創祀したことが、雲仙の起こりとされています。

(参考:『四面宮ものがたり』環境庁作成「雲仙」PDF雲仙温泉観光協会

先述の諫早神社でも行基の名が登場しましたが、墾田・灌漑開発や貧民救済などの社会事業に取り組むなど、民衆から称えられた宗教的指導者、人徳者として知られていました。後に行基は聖武天皇の信任を得て大僧正の位を戴き、東大寺の大仏造立の責任者に就くなど国家的にも認められ、入滅後は「行基菩薩」と呼ばれ、その功績は様々な逸話を巻き込みながら伝説化して語られるようになるなど、雲仙の始まりにもそうしたものが含まれているのかも知れません。

 

社名の温泉は”おんせん”ではなく「うんぜん」と読みます。

『雲仙』という表記は、昭和9年の国立国定公園指定にあたり、“温泉温泉(うんぜんおんせん)”だと紛らわしいため「雲仙」と改めたことに始まります。

和銅六年(713年)に書かれた『肥前国風土記』高来郡の項

《峯湯泉 在郡南 此湯泉之源出郡南高来峯四南之峯流於東流之勢甚多熱異餘湯伹和冷水乃得休浴其味酸有流黄白土及和松其葉納有子大如小豆令得喫》
(明治初期写『肥前国風土記』写本/早稲田大学文学学術教員 高松寿夫運営「古代和歌」HPより引用)

これに高来峯として雲仙岳の記述が見られ、温泉(おんせん)の湧き出る山として知られていたことが伺えます。行基開山の満明寺は山号を「温泉山(うんぜんざん)」といい、湯の峰として早くから認知されていたようです。

忘れてしまいがちになるのが、温泉神社の元々の社名が四面宮(しめんぐう)ということ。何度も雲仙と温泉の違いを説明していると勘違いをしそうになりますが、明治元年の神仏分離を受け、明治二年(1869年)に「筑紫国魂神社(つくしくにたまじんじゃ)」と変更、のち大正三年(1914年)に現在の「温泉神社」と改称し、県社に列格されます。それに伴い、雲仙・諫早地域に勧請された二十数社の四面宮も、「温泉神社」や地域名を冠した神社へと社名変更され、諫早神社も同様に四面宮からの改称という経緯を辿った神社のひとつというわけです。

湯の湧き出づる峰と信仰始まりの地、これがひとつめのキーワード「温泉(うんぜん)」です。

 

[温泉神社御祭神]

・白日別命(しらひわけのみこと)
・豊日別命(とよひわけのみこと)
・豊日向日豊久士比泥別命(とよひむかひとよくじひねのみこと)
・建日別命(たけひわけのみこと) 
・速日別命(はやひわけのみこと)

 

明治二年に一旦改称された筑紫国魂神社の名で分かる通り、「筑紫島(九州)の国土神」を全て祀る神社という立ち位置で祀られています。

「次に筑紫の島を生みき。この島も身一つにして面(おも)四つあり。面毎に名あり。かれ、筑紫国を白日別と謂ひ、豊国を豊日別と謂ひ、肥国を建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曾国を建日別と謂ふ。(※1)ー古事記上巻」
(※1 四面宮会HPには、火の国を速日別、日向国を豊久士比泥別と記しているが、ここでは社史ではなく一般的に知られている古事記原文から引用する)

「身一つにして面四つあり」というのは、筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の四国を差し、なぜそれぞれの国の主要地ではなく雲仙の地にまとめて祀られているのかというのは、雲仙の立地に深く関係しています。

中国から渡来する船にとって最初に見える高い山、それが雲仙岳であり、古代人は星や特徴的な地形を渡海目標とする航海術を用いて移動していました。

《航海術の基本は、自分の現在地を知ること、つまり「船位測定」にある。自分が今どこいるのかが分かるからこそ、正しい方向に進んでいるのかを知ることもできる。
 (中略) 最も基本的な船位測定法の1つが、「地文航法」である。これは灯台や山、岬や島など、陸上の目標物を対象にして船位を測定する方法である。古くは、漁師などが陸地の特徴的な地形を目印にする「山アテ」と呼ばれる方法があり、(一部抜粋)》

(参考:日本埋立浚渫協会 umidas 海の基本講座「#013航海術」より)

 

中国大陸から東シナ海を通って日本に渡る目印、「山アテ」として雲仙岳は知られており、そのことから日本山の異称を受けていたようで、九州への玄関のひとつであったのでしょう。島原半島の中心にそびえる雲仙岳は、海上のみならず九州本土からの目印ともなったと考えられます。

『肥前国風土記』高来郡の項には、景行天皇が肥後国玉名郡の長渚浜の仮宮に居た時、雲仙岳を見て、離島なのか陸続きなのか知りたいので調べてまいれと大野宿禰(オホノスクネ)を遣わせると、土地の者が出迎えてくれて「私はこの山の神で、高来津座(※2)という。天皇の使いが来るというのでお迎えに来た。」と言う。このことから高来郡と呼ばれるようになったと、地名の起こりが記されています。
(※2 タカクツクラと読むようだが、サイトによっては異なる読み方があるので注意書きに記す)

ここで2つめのキーワード、「渡来人」です。

神名および地名では高来=たかく・たかきと読ませていますが、“こうらい”とも読めるように、渡来人との繋がりを示唆しています。中国および朝鮮半島から海を渡ってやってきた高い文化を持つ人々は、肥前国風土記(713年)が編纂された7世紀以前には既に訪れており、5世紀末には新羅系秦氏が豊前国に入植し冶金や鋳造など高度な文化をもたらしていたこと《八幡神の始まり》など、渡来集団とその祖先神や崇拝している神が新たな神として土地の物語に組み込まれていくことはめずらしいことではありませんでした。

百済滅亡660年、高句麗滅亡が668年にあり、倭国に多くの人々が亡命してきた歴史からも、7世紀頃には高句麗系氏族が島原半島に居着いていたと想像されます。温泉山満明寺の歴史に、高麗(高句麗)から四人の王女が飛来し、阿蘇大明神の奨めで瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が去った跡地・雲仙岳に鎮座され四面大菩薩となった話が伝えられています。
雲仙には天孫降臨も伝えられ、温泉山縁起によれば、初め雲仙に降臨され、加無之呂(かむしろ・・・神代。当時の島原半島中心地)から肥後国八代に渡ろうにも海が荒れてなかなか渡れず、ようやく八回目で渡海できたことから八代の名がつき、そこから日向国高千穂に向かわれたという伝承があります。
環境庁作成「雲仙」PDF、鶴亀城址と神代の由来案内板より)

 

雲仙岳主峰群の山容は普賢岳を中心にして四方を取り巻く峰々から成り、その姿から一身四面を想像させたのかも知れません。温泉山の縁起に登場する高麗からやってきた四人の王女、行基開山伝承に出てくる白蛇の変じた四面の美女。共通するのは「四つの顔」

四面宮は、
①一身四面の筑紫国魂神(国土創生神話)
②中央と四峰から成る山容(地形景観)
③十丈の身を持つ白蛇化身の四面美女(開山伝承Ⅰ)

筑紫島の心臓部(信仰的中心)にして、四か国の平定を祈る中央祭祀場であったこと

それを裏付ける理由として
④高麗から飛来した四王女と四面大菩薩(開山伝承Ⅱ)
⑤高句麗系氏族の渡来(先進文明の流入)
⑥風土記譚・天孫降臨・行基伝説(英雄来訪による聖地認定)

といった高度文化を運んできた氏族による繁栄とそれに基づく先進文明が切り開かれていたと思われます。

肥前国風土記による景行天皇行幸では、他の地域では土蜘蛛といった土豪を武力を持って従わせた話が載っているのに関わらず、高来津座は御使いである大野宿禰を丁重に迎えに行ったことと、その名が高来の起こりとなった話から、天皇に恭順する姿勢を示したことで正当な領有者として認められたことを示唆していると思われます。
高来津座の意味を字から読み解くと、《高来(高麗)、津(格助詞。「の」の意)、座(クラ・・・著く場所。貴人の場合は御座所〈おましどころ〉という。)『高麗人の坐す所』といった意味であり、土蜘蛛など野蛮な豪族とは一線を画す存在だったことがその呼称から伺えるのです。

行基を迎えた白蛇化身の四面美女の伝説、高麗から飛来した四王女が後に四面大菩薩と成った縁起を照らし合わせれば、高来津座は高麗から渡来した女性貴人を中心とした集団であり、倭政権と争うことなく雲仙支配を許されたと想像されます。それには倭政権を納得させる何かがあったはずで、3つ目のキーワードに続きます。 

以下、後編へ。

 

 

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