梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太
昭和56年、「遊牧集」
より。
空がやっと白んできた頃に見た幻想であろう。
先日、長谷川櫂が「現代俳句の鑑賞101」に
「これは幻。
梅には鶯、魚であればせいぜい池の鯉と
決まっている日本の詩歌の常識に
飽き足らぬ人の見た凶暴な幻である。」
とあるのを読んで、
凶暴な幻というのに戸惑いがあった。
ところで、早春の青鮫の幻想は、
作者の心理的のどんなところから来ているのだろうか。
白白とした静謐ななかに潜む、
春の蠢き、怖さかもしれない。
作者はそんな予知的な感受のデリカシーが強い人なのであろう。
韻が5,5,9である。句の作りから見ると、
梅と青鮫だけでは、
読者のなかに感応の不協和音が立つ。
「庭中に」という措辞が緩衝材の役割を果たしている。
庭という限られた具体的な空間が散漫にならず、
この奇異な青鮫が、
昭和56年、「遊牧集」
より。
空がやっと白んできた頃に見た幻想であろう。
先日、長谷川櫂が「現代俳句の鑑賞101」に
「これは幻。
梅には鶯、魚であればせいぜい池の鯉と
決まっている日本の詩歌の常識に
飽き足らぬ人の見た凶暴な幻である。」
とあるのを読んで、
凶暴な幻というのに戸惑いがあった。
ところで、早春の青鮫の幻想は、
作者の心理的のどんなところから来ているのだろうか。
白白とした静謐ななかに潜む、
春の蠢き、怖さかもしれない。
作者はそんな予知的な感受のデリカシーが強い人なのであろう。
韻が5,5,9である。句の作りから見ると、
梅と青鮫だけでは、
読者のなかに感応の不協和音が立つ。
「庭中に」という措辞が緩衝材の役割を果たしている。
庭という限られた具体的な空間が散漫にならず、
この奇異な青鮫が、
読む側に、多少奇異ではあるが、入りこめるのだと思う。
参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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