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薄氷の吹かれて端の重なれる 深見けん二
立春をすぎても春は名ばかり
朝はこごえるような寒さだが
陽の光はやわらかくやさしげで
さそわれるように庭へ出た
小さな池に割れ欠けた薄氷
じっと見ているとまた割れる
割れた氷はあるかなしかの風に
吹かれるようにぜ池の端に寄り添うように重なって見える
作者はどのくらいの時を眺めていたのかと思う
写生、凝視、発見 なかなかここまでの辛抱は難しい
(小林たけし)
薄氷が剥がれ、風に吹かれかすかに移動して下の薄氷に重なる。これぞ、真正、正調「写生」の感がある。俳句がもっともその形式の特性を生かせるはこういう描写だと思わせる。これだけのことを言って完結する、完結できるジャンルは他に皆無である。作者は選集の自選十句の中にこの句をあげ、作句信条に、虚子から学んだこととして季題発想を言い、「客観写生は、季題と心とが一つになるように対象を観察し、句を案ずることである」と書く。僕にとってのこの句の魅力の眼目は、季題の本意が生かされているところにあるのではなく、日常身辺にありながら誰もが見過ごしているところに行き届いたその「眼」の確かさにある。人は、一日に目にし、触れ、感じる無数の「瞬間」の中から、古い情緒に拠って既に色づけされた数カットにしか感動できない。他人の感動を追体験することによってしか充足せざるを得ないように「社会的」に作られているからだ。その縛りを超えて、まさに奇跡のようにこういう瞬間が得られる。アタマを使って作り上げる理詰や機智の把握とは次元の違う、自分の五感に直接訴える原初の認識と言ってもいい。季題以外から得られる「瞬間」の機微を機智と取るのは誤解。薄氷も椅子も机もネジもボルトも鼻くそも等しく僕らの生の瞬間を刻印する対象として眼の前に展開する。別冊俳句「平成秀句選集」(2007)所載。(今井 聖)
【薄氷】 うすらい(・・ラヒ)
◇「薄氷」(うすごおり) ◇「春の氷」 ◇「残る氷」
(古くはウスラビ) 春先、薄々と張る氷をいう。薄く解け残った氷にもいう。
例句 作者
祇王寺の春の氷を割りし杓 梶山千鶴子
薄氷の下も薄氷朝あかね 塩入田鶴
うすらひのつと逃げて指水にあり 皆吉爽雨
春氷大和の雲の浮きのぼり 大峯あきら
薄氷のとけしところの空揺るる 小路紫峡
遠景のごとくに揺るる春氷 小宅容義
指置けばうすらひ水に還りけり 白岩三郎
薄氷ひよどり花の如く啼く 飯田龍太
模糊として男旅する薄氷 長谷川久々子
三十番札所の春の氷かな 岸田稚魚
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