ケンのブログ

日々の雑感や日記

不倫男

2020年10月07日 | 日記
ここ数日タブロイド紙やスポーツ紙を見ていると、日本でも有数の水泳の現役の選手の不倫が発覚して、その選手は企業とのスポンサー契約を解除されてしまったり、選手としてのキャプテンの地位を降りることになったり、もう、さんざんな目にあっているようなことが書いてある。

ここまでいろいろ書かれるということはやはりよほどひどいというか盛んに不倫ということをしておられたのだろうかといろいろ想像してしまう。

芹沢光治良の人間の運命という小説で主人公の森次郎はパリに留学する。その当時はまだ飛行機でフランスまで行くという時代ではなく船で何十日もかけてフランスまで行っていた時代だった。

小説には日本の港を出港した船が外洋に出るやいなや、女性の尻を追いかける動物の雄と化してしまう男性が続出して怖かったというような内容のことが書かれている。

作者の芹沢光治良は本を読んでいると、どうも女性は女性としてその人格をまず尊敬していきたいと思うタイプの人のようで、すぐに女性の尻を追いかけてしまったり、いわゆる女遊びというのをする人のことがあまり好きではないように思われる。

でも、やはりこういう不倫というニュースが出ると、きっと盛んにいろいろ遊んだんだろうなと思う反面、ちょっとお金をもったり、知名度が上がったりして、女性にちやほやされるようになると、そういう不倫というようなことが絶対におこらないと言い切れる人もまたそんなにいないような気がして、そういう人間の性と自分の理性のバランスをどうとっていくかというのはすべての人にとっての課題なのだなとしみじみと思う。

不倫をした男性のことが話題の中心になっているようだけれど、そういう男性になびいていく女性もまたいることも忘れてはならないように僕は個人的に思う。

いま、カトリック教会の聖職者の人でもセクハラというようなことをしてしまったというニュースが結構出てくる時代だから、本当に各自がそれなりに考えていかなければならないことなのだなと思う。

瀬音ゆかしき杜の都

2020年10月07日 | 日記
故郷の岐阜に帰省して長良川沿いを車で通り、そして木曽川沿いを車で通ると木曽川は長良川に比べて岩が多くてゴツゴツしていて、言ってみれば男性的だなと思う。

同じ岐阜県でも僕は長良川沿いの街で育ったけれど僕の祖母は木曽川沿いの街で育った。

だからだと思うけれど。祖母はいやなことがあると「まあ、わっち 木曽川へ飛び込んで死のかしら」といつも言っていた。

※わっち、というのは方言で私の意

祖母にとって川=木曽川だったのだと思う。

祖母が川に飛び込んで死のかしら、と言ったことは一度もなく
いつも木曽川に飛び込んで死のかしら、だった。

その言葉を言うときの祖母の口調を聴いて、僕はいつも、大丈夫、祖母は木曽川に飛び込んで死ぬことはないと思っていた。

かなり思いつめていることは祖母の様子からわかったけれど、死ぬほど思いつめているというわけではないというのは以心伝心でなんとなく僕もわかっていたから。

祖母は晩年にいろんな家族の都合で仙台に住む長男の家に行くことになった。

その祖母が仙台から大阪のおばのところに遊びに来たとき、祖母とおば夫婦と一緒に四国の徳島に遊びに言った。

海鮮料理のお店に入って、たまたまトイレの傍らで祖母と二人きりになったとき
「ケンちゃん、わっち岐阜へ帰りてえは」と祖母は僕に言った。

※帰りてえは というのは方言で 帰りたいの意

祖母が仙台に行ったのは家族のいろいろな都合によることなので僕はその祖母の言葉になにも答えることができず、ただ、「そうだね」と言った。

それがこの世で僕と祖母がかわした最後の言葉になった。

でも、祖母の僕に対する最後の言葉が、いわば祖母が自分の本当の願いを僕に伝えてくれる言葉だったのでそのことを僕は心密かに嬉しく思っている。

僕もいつも大阪に住んでいてたまに岐阜に帰ってくると、本当にここは良いところという気持ちになる。

故郷というのはそういうものだとおもう。

僕と祖母が最後の言葉を交わした数年後に祖母は90歳代の年齢で仙台でなくなった。

青葉城恋唄という歌の歌詞の一節に

瀬音ゆかしき杜の都 あの人はもういない

という下りがある。

杜の都とはすなわち仙台のこと。

杜の都 あの人はもういない というフレーズを聴くと僕は祖母のことをしみじみと懐かしく思い出し、涙が出そうになることが多い。

青葉城恋唄も良い歌だなと思う。