芹沢光治良の「人間の運命」という小説に次のような記述がある。
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(主人公次郎の旧制中学時代からの親友、石田孝一の母は次郎に言う)
「次郎さんそれでお願いに上がりましたが・・・娘たちは家を出た人たちですから、親の決めたことは、いやいやでも承知してくれますが、孝一夫婦を納得させるのは、とても難問です・・・
それで主人とも相談の上で、お願いに上がったんですが、孝三(石田孝一の弟)の結婚を認めるように、孝一夫婦を説得してくれませんか。(結婚)相手の娘さんが次郎さんのお友達の妹さんで、すなおなお嬢さんで、次郎さんのお宅でしばらく行儀見習いをしていたことや、(結婚相手の)お兄さんは早稲田出の新聞記者であるが、小説家志望で小説を書いていることなども、話して・・・
娘さんは田舎へ来て、郵便局をやることを喜んでいることも、書いてやってください。あの子(次郎の親友石田孝一のこと)は次郎さんのお手紙なら信用しますが・・・私達が話しても、孝三を甘やかしているようにとりますからね。どうぞお頼みします」
と言い加えて、おじぎをするなり、次郎が引き受けるものと頭から決めて、手土産の桃羊羹をのこして。こそこそ帰っていった。
次郎はしばらく縁側に立ちつくした。婦人の駒下駄の音を追いでもするように、ぼんやり考えていた。
石田(孝一)の両親や弟が家庭に面倒な問題があるたびに、何故自分に押し付けるように頼むのか。ただ石田の親友で幼い頃から知っていて気がおけないからか。
わが母が、石田の祖父が小間使いの女に産ませた娘であるために、家庭で使用人をあごで使っているように、自分をも無意識に軽く扱っているのではなかろうか。
わが家の小間使いに産ませた娘の息子であるから、血縁関係にあるものと扱わないで、大地主の封建制のもとの一種の奴隷のように考えているのではなかろうか・・・
その証拠には、石田の弟も母も、自分が結核で長く闘病していることについて、一言の見舞いの言葉もかけなかった・・・それなら、その大地主が崩壊するのを、一生かかっても、この目で確かめてやろう、そう次郎は自分をむちうった。
※小説では、石田孝一は次郎の旧制中学からの友人で大地主の息子。そして次郎は石田孝一の祖父が小間使いの女に産ませた娘の子で、石田孝一と次郎はその意味で血縁関係にもあるという設定になっている。“”
ここを読んだときに僕は次郎というのはすさまじい気迫の持ち主だなと思った。
こんなすごい気迫の持ち主ってちょっとお目にかかったことがない。
恨みでもない。かといって悟りきっているわけでない。
そのギリギリのラインを行っているところがすさまじいところだと思う。
ここを読んだときパウロのこの言葉を思い出した。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われると書いてあります」という言葉。(新約聖書ローマびとへの手紙代12章より)
キリスト教関係のサイトを見ていると、キリスト教の先生がここを引用して、自分で復讐せず飢えている人には食べさせ渇いているひとには飲ませるように愛と善に生きましょう。というような話になりがちだけれど、芹沢光治良の小説を読んでいると、神の怒りにまかせるという思いはそんなになまやさしいものではなく、むしろすさまじい気迫なのだな、というように思えてくる。
そして小説のここからあえて何か教訓を求めるとすれば、何か困難にぶつかったとき、それにうちひしがれるのではなく、どうなるかはわからないけれど、とにかく結果をこの目で見てやろう、そういう思いが困難に負けないために大切なのだということだと思う。