ケンのブログ

日々の雑感や日記

ガッツ アンド トライ

2021年06月19日 | 日記
今日の読売新聞の人生案内というコラムにこんな相談が載っている。

「30代前半の男性。中学時代に女子生徒からいじめを受け今も苦しいです。
陰口でも、面と向かってでも『臭い 臭い』と言われ、そう書いた紙を背中に貼られたこともありました。毎日入浴しているし、衣服も洗濯しているのに、なぜそんなことを言われるのか理解できず、親にも先生にも話せませんでした。

その女子生徒たちとは違う高校に進学し、それから嫌な記憶は頭の中にしまいこもうとしてきました。しかし、今も、女性と話すときに、中学時代に女子生徒から言われた言葉がよみがえり、自分が相手を深いにさせているのではと思ってしまいます。女性とうまく関係が持てません。このトラウマからどうしたら抜け出せますか」と


これに対する大学の先生のアドバイスは

「自分をいじめた相手が頭に浮かんでしまったら、とりあえず『私はあなたを許します』と心のなかで唱えてみてはいかがでしょう。これは私が嫌な相手を思い出してしまったときに行う方法です。気休めの一種ですが試してみる価値はあると思います。いじめに対するもっとも効果的な仕返しがあるとすれば、それはあなたが楽しく女性と話せるようになることです」となっている。

※アドバイスは後半の結論の部分を引用

人生案内って、相談者の文章も興味深く読むこともあるし、回答者の文章を興味深く読むこともある。

あくまで、僕、個人の感想なのだけれど、「私は、あなたをゆるします」と唱えることは気休めの一種だけれど試してみる価値がある、というのは、ちょっと白々しいようにも思える。(あくまで、個人の感想なのでその点は、ご理解ください)

嫌な思いをそらすために、なにかを唱えるなら、いつかこの人生案内のコーナーで作家の方が提唱しておられたように「だるまさんがころんだ」とか唱えるほうが、効果がありそうに僕には思える。

唱えるのもその方が簡単だし。

さて、この人生案内の相談と回答を読んで、ひとつ思い出したことがある。

清水和音さんというピアニストがいらっしゃる。

僕とたぶん同年代の方だと思う。

その方が若い頃、テレビが取材した番組を観たことがある。

(その頃は僕も若かった)

女性の記者が、その番組のなかで、「大勢いるコンサートホールで、ステージに出ていく時って怖くないですか」と清水和音さんに質問した。

すると清水和音さんは「それは、もう怖いですよ」といった。

「そういうときはどうするんですか?」と女性の記者が質問した。

すると清水和音さんは答えた「それはもう怖いまま出ていくんですよ」と。

僕、それを聞いて、清水さんご名答と思った。

怖いなら、怖いなりに、すこしずつトライ というのが、行動を妨げる負の感情の克服にはいいように僕は思う。


僕自身もなかなかトライできないで、もどかしい思いをすることもあるけれど、、、。

それはともかく一日いちにち無事であること、それを第一に願っていきたい。




さすがに暑くなってきた

2021年06月17日 | 日記
さすがに暑くなってきて、ペットボトルの麦茶などの減るスピードが早くなった。

そういう意味では、身体は正直だなと思う。

芹沢光次郎さんの「人間の運命」という小説を読んでいたら、主人公の森次郎があるひとから「もう病気の方はすっかりいいのですか」と問われて

「結核という病気は、これでよくなったという時がはっきりしない病気ですから・・・・」と答える場面があった。

この場面の時代設定は日中戦争の頃だから、まだ、結核は、高地へ行くとか、いわゆる自然療法で治すのが主流の時代だったと思う。

けれど、今の時代にあてはめてみても、風邪などは、鼻水がとまって、咳が止まって、熱が下がれば、なおったと比較的はっきりするけれど、それ以外のいろいろな生活習慣病やトラウマなどは、やはり、これでよくなったという時がはっきりしない場合が多いのではないだろうか。

そういう意味では、自分の病気というものが、何であれ、しっかり、気長に向き合っていくという姿勢も大切なのではないだろうか。

一度に治してしまおうということが逆に無理につながり、新たなひずみを生むということもありうるだろうし、、、。

小説の主人公の、とても、真面目な発言を読んでそんなふうに思った。

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今日の読売新聞の経済面に、大手総合商社の大きな新聞広告が出ていてその文章の中にこんな表現がある。

「太陽光や風力などの再生可能エネルギー電源は永続的に利用することができ、また、発電するときに二酸化炭素を排出しないのが特徴だ。しかし、日本の再エネ比率は現在20%と低く、政府の参考値2050年に50%から60%と大きな開きがある」と書いてある。

書いてあることが、あまりにも正しすぎて、逆に怖いなと思ってしまう面もある。

太陽光で発電した電源が永続的に利用できるといっても、太陽光パネルの耐用年数が経過したときにはどうするんですか、と言ってみたところで、「文章にでは、太陽光パネルの耐用年数には触れていません、太陽光があるかぎりは永続的です」と言い返されたら、もう、ご道理ごもっともと言うより他はない。

でも、今まで、田んぼや、畑、森だったところに太陽光パネルを敷き詰め、海底に穴を掘って心棒をたて、巨大な風車をブンまわしたら、環境が破壊されて、再生可能エネルギーの利用は理論上永続的でも、その前に、人類が滅びてしまうかもしれない。

しかし、そんなことまで考えていたら、経済における国際競争力が落ちてしまうだろうし。


本当に、誰が、どんな責任をもってどこに進んでいるのか分かりにくい時代だなと思う。

まあ、何をいってみてもなるようにしかならないのだろうけれど。

できれば、人類や地球が生き残れることを願っている。

ひとつだけ言えることは、なるべく余計なエネルギーを使わないことが、環境破壊にたいしてできるささやかな配慮だとは思うのだけれど、僕も暑くなるとすぐエアコン入れるから、とてもえらそうなこと言える立場じゃないし、、、。

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以前、読売新聞に渋滞学の先生の話が載っていて、そこには、たとえば車間距離をつめすぎると、渋滞がおこりやすくなって、結局、みんなが目的地につくのが遅くなる。

車間距離を開けたほうが、結局は、渋滞がおこりにくく、みんなが目的地に早くつく。

また、バケツリレーでも、バケツに目一杯水を入れるよりも7分目か8分目にしておいたほうが、結局、単位時間で運べる水の総量は大きくなる

という主旨のことが書いてあった。

これって、僕自身なるほどなと思ったし、僕以外の多くの人も、言われてみればその通りと思うのではないだろうか。

それで、思い出したのだけれど、金光さんの言葉にこんな下りがある。

「理屈があっても、みなまで言うな。理屈とくさびは八分づめ。つめすぎると紙袋は裂ける」と。

本当に、理不尽な目に遭ったときなどに、こちらの言い分を100%言ってしまって、問題が治まるどころか逆に、大きくなってしまうことって、あると思う。


八分づめでとめられたかどうか、反省することもおおい昨今だ。

これに、関連した金光さんの考えで、僕が好きなのは「くり合わせ」という考え方。

午前中に電話して、怖いお兄さんがでてきても、午後に電話したら、今度はやさしいお兄さんが出てきた。これも、くりあわせのひとつなのだと僕は思うし、また、思いたいと考える。

それはともかく、毎日、無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。





蒸し暑い日々

2021年06月16日 | 日記
電車に乗っていたら、車内アナウンスが流れた。

「皆様、一つのドアに固まらないように、すいたドアからご乗車頂きますようお願いいたします。電車はまもなく山下駅に到着いたします」と車掌さんが言った。

“”一つのドアに固まらないように“”という言い方の声のトーンが、密になるのは避けてくださいと言いたげなトーンだった。

その声のトーンで、ああ、車掌さんも、ちょっとカリカリ来ているんだろうなと僕はぼんやり考えていた。

すると、次の瞬間に、年配の男の人が「まもなく山下駅か、そんなこと言われんでも、わかっとるわ。次は山下か、わかっとるわ、山下やろう」と何回か繰り返して言いながら車内を歩いた。

※山下駅というのは僕が適当に考えた名前です。

何日か前に、地下鉄で、サザンオールスターズの、「いとしのエリー」のサビのところを繰り返し車内で歌っていたおじさんがいた。

けれど、歌のメロディが正確だった。

本当に、頭に来てしまっていたら、メロディを正確に歌うことはできない。

僕は怖いと思いながらも、これは大丈夫と思っていた。

まあカレーの辛さで言ったら1辛かせいぜい2辛程度のものだろうと思った。

でも、今日、おじさんが「次は、山下か、そんなことわかっとるわい」と何回か車内を歩きながら言ったときは、いやあ、これは2辛か3辛 くらいの怖さだなと思った。

少なくとも、電車を降りて、駅員の方に、伝えようかどうか迷う程度の怖さだった。

「注意をうながす車内アナウンスも、声のトーンとか言い方を柔らかくしないと逆に危険かも、、、」と駅員の人に伝えようと思ったけれど、やめた。

最近、駅員の方も、改札口のところに立って、ご乗車ありがとうございます などど挨拶している場合も多い。

治安のことも考えてみんなの気持ちをほぐそうとしてやっておられるのだろうと思う。

まあ、お客様相談センターなどへのいろんな苦情を考慮して、考えておられるだろうから、駅員の方に伝えるだけおせっかいと思ってやめた。

ところが、そんなふうに考えていると、改札を出たところの緑電話の上に、住所などいっぱい書いてある手帳が置き忘れてあった。

これは、高価なものではないけれど、持ち主にとっては、高価な品よりも大切なもの。

もう、速攻で駅員の方に届けた。

駅員の方に、アナウンスの話をしようと思っていたときに、別件で駅員の方に手帳を届けることになるのも、なにか、ちょっとしたタイミングのご縁かなと思ったりする。

しかし、比較的、上からのお達しには従順な日本人。

ワクチンも、それは会社で接種となると、僕も自分が会社に勤めていた頃の気持ちを思い出すと、もう、これは、自分の体質とワクチンとの相性とかそんなことろくに考えず、ままよと思って接種するとおもう。

部長も、課長も、主任も、接種しているのに自分だけ接種しないわけにはいかないと考えてしまう。

そして、大企業から、接種していけば、中小企業はこれにならう。

もう、そういう流れになるんだなということは僕なりになんとなくわかるように思う。

しかし、オリンピック。

いろんな国から人が集まる。国によって価値観は違う。

コロナに感染しないための規則を、厳格にしすぎると、選手と、大会関係者の間でトラブルが起きないか、また、それによって、日本と諸外国の関係が悪化しないか、不安はつのるけれど、まあ、権限のないものは成り行きにまかせるしかない。

無事でありますようにとそれを願っている。

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家の 近所を歩いていると、アジサイではないけれど、真ん中あたりが、小ぶりのアジサイのようで、その周りに、また、小さい朝顔のような花が4つか5つくらい咲いているようなとても印象的な花がある。

葉も、すっとしていて、きれいだし。

なんだろう、植物図鑑ももってないしなあ とここ数日思っていた。

ちょっと思い立って、ネットで6月の花と入れて、画像検索してみると ガクアジサイであることがわかった。

いやあ、普通のあじさいとは一味違う、なんとも不思議な魅力を持った花だなと思う。

それはともかく、一日いちにち無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。













気づいたら相撲の話になっていた

2021年06月14日 | 日記
かなりの晴天だった。やはりもう、夏至も近く晴天だとかなり暑い。

昨年も、マスクで夏を乗り越えられるだろうかと思ったけれど、今年は今の所なんとかなっている。

ただ、まずいと思ったら、マスクをはずすという意識も持っていたいなと思う。

我慢しすぎてバタッと行ったらまずいので、、、。

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何日か前に相撲の場所前にキャバクラに通っていたことが判明した朝乃山が、6場所連続出場停止で、復帰したときには三段目からやり直しだろうと新聞に出ていた。

いやあ、三段目からというのはきついなと思う。

もう、本当に昔の話(昭和から平成初期の時代の話)になるけれど、大相撲に蔵間というとても男前の力士がいて、引退してからもタレントとしていろんなテレビ番組に出ていたことがあった。

その蔵間さんが司会をしている番組に引退後の輪島が出て、蔵間さんが「もう、俺、ずいぶん長いこと相撲やってないから、今、やったら三段目に勝てるかなあ」ということを言った。

そうしたら輪島が独特のポツリとした語り口で「三段目?そりゃ勝てるでしょう」といった。

それを聞いて、僕は、幕内経験者、ましてや横綱、大関経験者から見たら、三段目って、まあそのくらいの感じなのかとなんとなく思った。

僕も、大阪府立体育館に大相撲を見に行くときは、だいたい、正午前くらいに会場について、だいたいその時間というのが三段目あたりの取組中ということが多いので、なんとなく素人なりに感覚でわかる側面もある。

その地位からやり直しって、、、。

稽古をしていれば、体力は落ちないだろうから、三段目ではたぶん7戦全勝に近い成績になるとは思うけれど、幕下、十両とあがるにつれて周りも強くなってくる。

それに、怪我で落ちるのと、こういう不祥事で番付が落ちるのでは、また、違った心理的なしんどさがあると思うし。

本当に世の中にはいろんなタイプの試練、苦労というのがあるのだとしみじみと思う。

朝乃山に関して、親方の朝潮も朝乃山をいろんな宴席に引っ張り出したりして、あかんやろうというようなことが言われていた。

それで思い出したのだけれど、朝潮の現役時代に引退後の輪島がNHKの相撲中継の解説をしたことがある。

150キロをはるかに超えるかという朝潮の堂々とした体格を見てアナウンサーが「どうですか、この堂々とした朝潮の体格」と輪島に話をふると、輪島はたった一言ポツリと「太り過ぎじゃないですか?」と言った。

それでアナウンサーは、話の持って行き場がなくなってしまって、黙ってしまった。

それを聞いていて、僕は、輪島、こらあかん、もう解説には呼んでもらえなくなるわ と思った。

案の定というか、それから輪島が相撲解説をするということはあまりなくなってしまった。

そうこうしているうちに、親方株を担保にお金を借りたとかで、廃業ということになってしまった。

魅力的で、かっこいい横綱だったけれど、そういう意味での世渡りは、本当に不器用な人だったなあとしみじみと思う。

対象的に北の富士さんなどは、白鵬が貴景勝と長い相撲を取ったときに、アナウンサーが「いやあ、白鵬も今日は慎重でしたねえ」と話をふると、「まあ、慎重というよりも、(白鵬も)土俵の上で楽しんでたんじゃないの、あの上手取ったら、負けることはまずないんだから。すぐに(勝負を)決めてやればいいものを、本当に白鵬も人が悪い」と答えておられた。

まあ、こんなふうに面白く答えてくれると、アナウンサーも話が振りやすいだろうなと思う。

というか、相撲中継をするようなアナウンサーは、もう、解説者と同じくらいのレベルの目で相撲を見ていることが多い。

それで、その目で見て、アナウンサーも解説者に話を振るわけだから、解説者も、アナウンサーの求めに応じるという気持ちも必要になってくる。

そういう意味で、相撲解説に限らす何事も、人の求めに応じる力を持った人は得だなあと思うことがある。

その北の富士さんも白鵬が優勝して土俵下のインタビューのとき会場のみんなに三本締めを促すと「まあ、白鵬らしいといえば、それまでだけれど、ちょっと、これは、やりすぎだね」と言っていた。

「最近は、白鵬がインタビューを受けているときは、ヒヤヒヤするよ」というようなことを北の富士さん言っていたこともある。

人のことを少し悪く言っても、角が立たないような柔らかいユーモアを交えた語り方のできる北の富士さんはそういう意味では徳のある人だなとおもうことが多い。

それやこれやで、白鵬もいまはピンチに陥っているけれど、どうなるだろう。

どうなるだろう、と言っても、経過を見守るしか、ないわけだけれど、、、。

特に、相撲のことを書くつもりで、記事を書き始めたのではないけれど、書き終わったらなぜか相撲の話しに終始していた。

まあ、そんなこともあるだろう。

一日いちにち無事であること、それを第一に願っていきたい。









6月も半ばになって

2021年06月14日 | 日記
自宅の近所を歩いていて一二週間前に比べると、あじさいがの花がはち切れるほどにおおきくなっていることに気づく。

大きくて壮観といえば壮観だけれど一二週間前のもうすこしひっそり咲いている感じのほうが僕は好きかなと思う。

それに、花って、大きくなるということは、もうすぐしおれていくということになるだろうし、と足りない頭で考えたりする。

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電車に乗ると窓が開いていて、窓が開いているということは、冷房は強い冷気を送り続けるということになる。

僕は、全体的には暑がりのほうだと思うけれど、そういう局所的な冷気は苦手。

なので、カバンにいまでもネックウォーマーを入れていくとか、そちらの方に気を使っていて、つい、忘れていたけれど、かなり暑くなってきている。

家にいるときなど、気づくと、半袖のTシャツ一枚でいることが多くなった。

それでいて、出かけるときにはカバンにネックウォーマーを入れていくというのが、このコロナのときの特異性を如実に示していると思う。(少なくとも僕にとってはということだけれど)

ネックウォーマーに気を取られて老眼鏡を忘れたりとか、何かとそういうことも多い昨今だ。

いずれにしても、このコロナで、季節感というものも少しコロナ以前とは変わってきてしまっているのは僕の場合、事実のようだ。

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読売新聞に、マラソンの元日本代表で、お菓子の万引きなどで何度も逮捕され 摂食障害と窃盗症などの診断を受けたという原裕美子さんを取材した記事が載っている。

過酷な減量で、気づくと他の選手が冷蔵庫に入れていたヨーグルトを勝手に食べてしまって、全日本実業団女子駅伝を欠場に追い込まれた話も出ている。

記事のその箇所を読んだとき、芹沢光治良さんの「人間の運命」という小説に次のような記述があることを思い出した。

“”
人間は弱いものだ。食べるものも金もなくなると、神経が鋭くなるのか、同級生の誰は、どこに財布を置くか、誰の机の中に硬貨があるか、誰の本棚の書物はいくらで売れるか・・・・・自然にわかって、目先にちらついて困る。

意思に反して手が出そうになる。

同級生は同級生であり、親しい仲間であるから、自習室でも寝室でも、財布や金銭を隠すようなことはしない。

財布から、机の引き出しから、五十銭銀貨が一枚消えても、気がつかないに決まっている。

大塚の本棚には、高価な洋書が幾冊ものっている。これを神田の古本屋まで行って売ったら、大塚もあとで犯人を探せないだろう

次郎は大塚の本棚の前に立っている自分を発見して、蝋梅(ろうばい)したことがある。

財布をおさめた同室生の机の前に足が向いて、慌てたこともある・・・・・・

その都度、次郎は何か目に見えないが、天からさがっている鎖のようなものを必死に握りしめて、たえたが、全身が自己嫌悪で震えていた。

自分は盗みもできる人間だ、横領もできる人間だ・・・・・と。“”

※次郎は小説の主人公、作者、芹沢光治良の分身と思われる。大塚は次郎の旧制第一高等学校の同級生。

芹沢光治良は、「人間は食べるものも金もなくなると神経が鋭くなるのか」 と上記の引用箇所で書いているけれど、

原裕美子さんも読売新聞の記事によれは摂食障害について医師から「過酷な減量で体が飢餓状態に陥り、摂食本能が刺激されて、自然界では摂食前に行われる、狩猟や採集をつかさどる神経活動が活発に。その結果、自分の意思とは裏腹に、反射的に食べ物を盗んでしまう」と指摘されたという。

芹沢光治良さんが小説に書いていることと、原裕美子さんの体験のあまりの類似性に驚いてしまう。

やはり、食べ物に不自由しないとうことにも感謝しなくてはとおもう。

芹沢光治良さんは「天から下がっている鎖のようなものを握りしめて必死にたえた」と上記の引用箇所で書いているけれど、人間、極限状態になったときには、そういう鎖のようなものを意識できるかできないかでも、行く末が変わってくるということは、僕なりになんとなく感じる。

原裕美子さんのこれからの人生もよきものでありますようにと祈っている。

それはともかく、自分自身は、一日いちにち無事にすごせること、それを第一に願っていきたい。