今年も、おしせまってきましたね~。
ガソリンが高ければ、高くて、
大変だ~、どこまで上がるんかいな?
と、心配になり
だんだんそのガソリンが安くなると、
それはそれで
いいんかいな、こんなに安くなって、
と、また心配になり・・・。
1万2千円、もらえるのはうれしいが、
お国の大事な時とかに、とっといたほうがいいじゃないかと心配になり・・・。
あ~まことにもって心配症はどうにもなりません。
良くても悪くても心配になるのですから。
山本周五郎の随筆に、こんな風景が描かれていました。
「年の瀬の音」
十二月になると一日一日に時を刻む音が聞こえるようである。
ほかの月にはこんなことはないし、そんな感じのすることがあっても、12月のそれほど脅迫感はない。
(中略)
ひるめしを食べに出て、市電で仕事場に帰る途中、私の前へ若い人妻が立った。
背中に赤児を背負い、五歳くらいの女の子をつれている。
人妻は二十六か七、色のさめた赤いセーターにネズミ色のラシャのスカート。
ウェーブの伸びた髪毛が乱れて、細おもての青ざめた顔はこわばり、眉間には疲れたような、神経質なしわが深く刻まれている。
おちつきを失った眼は絶望した人のように、するどく一点をみつめていた。
女の子は片手で母親のスカートにつかまり、片手に半分を紙で包んだキャンデーを持っていて、それをしゃぶりながら母に呼びかけるのであった。
「かあちゃん、おばあちゃんに会えてよかったね、ねえかあちゃん」
若い母親は一点をみつめたまま答えない。
「かあちゃん」
とまた女の子は呼びかける
「ねえ、おばあちゃんがうちにいてよかったね」、
ねえとスカートを引っ張る。
すると若い母親は邪険にスカートを振りり放して、うるさいね、と邪険にいうのであった。
「うるさいね、黙っといでよ」
おばあちゃんがその母子とどういう関係の人であるかむろんわからない。
若い母親は赤児を背負い、幼い子をつれて「おばあちゃん」を訪ねていったのである。
おばあちゃんはうちにいたし、彼女たちはおばあちゃんに会った。
女の子にはそれは
「よかった」
のである。
しかしその若い母親にはよくなかったらしい
十二月。
私はここで自分の想像を組み立てようとは思わない。
この母子の短い対話そのものが、疑問の余地のないほどあからさまに事情を語っているのであって、しかも十二月であるということも、こちらにとって心臓へあいくちを突っ込まれるかに似た思いを致させられるのである。
こういう年の瀬の風景、昔はどこでもみかけた時代があったんですよね。
盆暮れの借金取りに、
「おとうさん、いるけどいないの」
と答える子ども。
落語のまくらで使われたりしていました。
まだまだ、おれおれ詐欺が商売にならない時代。
それも遠い昔となったと思っていましたが、今年の年の瀬は、こんな時代のことを思い出しました。
近頃のニュースをみるたびに、気が滅入っていました。
そんな中、昨日は帰省ラッシュが始まったニュース。
空港で、お孫さんを満面の笑みで迎えているおじいちゃんおばあちゃん。
照れながらも嬉しそうな子どもたちの笑顔。
何か例年になくその光景が微笑ましく思えました。
「田舎で何をして過ごしたいですか?」
というインタビューに
「安全でのんびりくらしたい」
と答えていたちびっこに笑ってしまいました。
彼らも大変なんだね~。
今日の私の小さな幸せ
神様が、本日、
「大掃除日和」
を提供してくれました。
お餅もついたよ~。