小学生の頃、まさに“巨人・大鵬・卵焼き”だった自分から見ると、大鵬を脅かす存在となった北の富士と玉の海は敵役だった。
1970年5月場所、同時に横綱となった北の富士と玉乃島改め玉の海。彼らに対して横綱としての晩年を迎えた大鵬が最後の意地を見せ、その後しばらく三つ巴の優勝争いが展開した。そして大鵬引退後に訪れた北玉時代。千秋楽の横綱同士の熱戦の後、勝敗の別なく、互いの健闘を称え合うかのようにうなずき合う2人に好感を持った。
だが71年秋場所後の玉の海の急死によって北玉時代はあっけなく終わった。もし玉の海が生きていたら、北の富士の横綱としての寿命は確実に延び、2人がしのぎを削るような相撲が見られたはず。そう思うと残念でならない。
北の富士といえば、72年初場所、貴ノ花の捨て身の投げに対して、北の富士がついた右手がつき手かかばい手かで物言いがついた一番も忘れ難い。後に北の富士は「何度もビデオを見ているうちに、悔しいけれど彼(貴ノ花)が勝っていたのかなと思うようになった」と語っていた。
引退後は、九重親方となり、千代の富士、北勝海という2横綱を育て、解説者としても活躍した。玉の海の死から53年。力士(横綱)としては長生きで天寿を全うしたのではないか。
先日、「食いついたら離れない」ピラニア、あるいはさまざまな技を駆使することから相撲博士の異名を取った小兵の元大関・旭國も亡くなった。78年3月場所での魁傑との2度の水入りを含む合計10分を越える大相撲が印象に残る。この人も大島親方として横綱・旭富士や旭鷲山、旭天鵬といったモンゴル勢を育てた名伯楽でもあった。