『ほぼ週刊映画コラム』
今週は
思わず彼女たちを応援したくなる
『LOCO DD 日本全国どこでもアイドル』
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https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/week-movie-c/1125717
某所での原稿作製のため、『大砂塵』(54)を40数年ぶりに再見。
1890年代、鉄道の敷設が進むアリゾナを舞台に、賭博場に現れた流浪のギター弾きとかつての恋人である酒場の女主人が、銀行襲撃犯と自警団との争いに巻き込まれていく姿を描いた異色西部劇。初見時、まだ中学生だった自分は「おばさん同士がいがみ合う、変な、妙な西部劇だなあ」と感じた。
今回、見直してみてその印象が全て覆ったわけではないが、役柄とも重なるジョーン・クロフォードとマーセデス・マッケンブリッジの対立、男女役の逆転、『カサブランカ』(42)や赤狩りが与えた影響など、映画の奥にあったものを調べていくと、いろいろな意味で興味深い映画だとは思った。
ラストでチラッと流れるだけの主題歌「ジャニー・ギター」(作詞・歌ペギー・リー、作曲ビクター・ヤング)が、なぜスタンダードになったのかは謎だが、多分、ラジオなどで流れて独り歩きした結果なのだろうと推察する。
https://www.youtube.com/watch?v=jw9pxjzfSX0
疑問だらけの映画
「人の死」をよりどころ(ユリゴコロ)として生きる殺人者(吉高由里子)の姿を、過去と現在を交錯させながら描く。彼女が自分を受け入れてくれる男(松山ケンイチ)と出会って…。これは、悪魔と天使が出会うという、一種の“雪女話”のようなものなのかもしれないが、無駄にグロテスクさを強調した演出も含めて、疑問だらけの映画だった。
・殺人鬼の心情をくんで、最後は“いい話”“泣ける話”のようにして締めくくっていいのか。・犯した殺人が全く疑われないのは何故なのか。・何故、美津子(木村多江)だけがいろいろな情報を知っているのか。そもそも彼女の存在自体が…。・松山ケンイチの老若二役に違和感あり。ほかにもいろいろあるが、一応ミステリーなのでこれ以上のネタバレは避けよう。
でも、この映画はちょっとひどいなあ。
消化不良で原作が読みたくなる
どんな悩みも解決する雑貨店の郵便口を介して過去と未来がつながった。2012年と1980年を手紙がつなぐという奇跡を描いた東野圭吾原作のファンタジー小説を映画化。
時空間のねじれを扱ったファンタジーは、作り方を間違えると普通の映画よりも絵空事感が増す。本作も、現在と過去、雑多な人物が交錯するという、もともと映画化が難しい題材ではあるのだが、雑貨店内外の時間経過の違いを雑に描いた点が致命的な失敗だろう。見終わって消化不良を起こし、思わず原作を読んでしまった。
その結果、例えば「雑貨店に紛れ込んだ3人組(山田涼介、村上虹郎、寛一郎)にとって、これは“一夜の出来事”である」「外の世界の1時間は、雑貨店の中にいると何日にもなる」「雑貨店の裏口のドアを開けると内と外の時間の流れが一致する」「登場人物は皆何らかの形でつながりを持っている」など、原作が描いた重要な“ルール”が映画では描き切れていないことが分かった。それ故、観客を泣かせようとする作為だけが目立って、かえって興ざめさせられたのである。
1978年、ヤクルト・スワローズ初の日本一に貢献したデーブ・ヒルトンが亡くなったという。独特のクラウチングスタイルから快打を連発し、セカンドの守備や走塁でもたびたびハッスルプレーを見せた。
ペナントレース優勝時、最後のセカンドゴロを横っ飛びでさばいた姿、阪急との日本シリーズで、シリーズの流れを変えた今井雄太郎から放ったホームランが特に印象に残っている。振り返れば、大活躍したのはこの年だけだったのに、何故か今でもその存在が忘れられない。
帰国後の様子は、池井優氏の『ハロー、マニエル元気かい プロ野球外人選手列伝2』で読んだが、それは85年のこと。あれからすでに30年余がたってしまった…。
ヤクルトファンで知られる村上春樹氏が「デイヴ・ヒルトンのシーズン」といういい短文を遺している。氏は開幕戦でヒルトンが放ったツーベースを見て作家になろうと決めたのだという。その文はこう結ばれている。
「さよなら、デイヴ・ヒルトン」。
元世界ミドル級チャンピオンで“怒れる雄牛”と呼ばれたジェイク・ラモッタも亡くなった。彼の半生を描いた『レイジング・ブル』(80)といういい映画があった。
初見の際のメモを転載。(1981.2.27.日比谷映画)
ファーストシーン、ヒョウ柄のガウンを着た男がリング上でシャドーボクシングをしている。画面はモノクロで、リングサイドに漂うたばこの煙がやけに白い…。この映画はこんなスローモーションのシーンから始まる。
ジェイク・ラモッタという実在の元世界ミドル級チャンピオンの半生を、凝ったカメラワークで描いていくのだが、ラモッタの強烈なリングファイト、女房への異常なまでの執着、栄光、挫折、転落、孤独…などを見せながら、アメリカで生きるイタリア移民の匂いを強烈に漂わせる。
ラモッタのような、人一倍性欲が強い男に、禁欲生活を強いれば、性格に異常をきたしても不思議ではない。おまけに女房(キャシー・モリアーティ)は飛び切りの美人とくれば、その欲望をどこにぶつけていいのか分からない苛立ちを感じるのも当然だろう。ただ、ラモッタはあまりにも自分の感情をストレートに押し出し過ぎて、見ているこちらが悲しくなってくるほど不器用で、生き方が下手な男だ。
そんな男を、ロバート・デ・ニーロが恐ろしいまでの怪演を見せながら演じ切っている。特に、前半のボクサーらしい締まった体から一転、後半の醜く太った姿の違いは圧巻だ。
後半は、落ちぶれて投獄され、牢の中で拳を壁に打ち付けながら泣き叫ぶラモッタ…。場末のキャバレーで受けないジョークを飛ばして生活するラモッタの姿が映る。
モノクロ故、全体的に暗く陰惨なイメージは拭えないが、そこからボクシングの持つ残酷さや、ラモッタの悲しさが浮かび上がってくる。同じイタリア系のマーティン・スコセッシとデ・ニーロのコンビだからこそ、ラモッタという人物をここまで描けたのではないか、という気がする。それにしても、女房があまりにも美人だと男は不幸になるのか…。
この映画の製作はアーウィン・ウィンクラーとロバート・チャートフ。そう、あの『ロッキー』(76)を作ったコンビだ。『ロッキー』がボクシングの陽性を描いたとすれば、この『レイジング・ブル』は陰性となるのか。全く対照的な二つのボクシング映画を製作するとはすごい。
【今の一言】今から30数年前、思えばこの頃がデ・ニーロの全盛期だったなあ。
目は口ほどに物を言う
舞台は1950年代のニューヨーク。デパートの女性店員テレーズ(ルーニー・マーラ)と、裕福だが心満たされないマダムのキャロル(ケート・ブランシェット)が出会い、やがて同性愛関係に陥る。
原作者のパトリシア・ハイスミス、監督のトッド・ヘインズ、脚本のフィリス・ナジーは、皆同性愛者だという。それ故、いわゆる“その道”の人々にしか分からない、心情、言葉遣い、仕草などは、きちんと描き込まれているのだろう。
特にテレーズとキャロルが交わす目線が印象的。まさに「目は口ほどに物を言う」という感じだ。
ブランシェットが妖艶なたたずまいを見せ、マーラも不思議な魅力でそれに応える。脇のサラ・ポールソン、カイル・チャンドラーも好演を見せる。
50年代の華やかなファッション、くすんだ画調が見もの。カーター・バーウェルの音楽も聴きものだ。
『間違えられた男』(56)『西部開拓史』(62)『暴力脱獄』(67)『デリンジャー』(73)『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73)『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)『ブルージーンズ・ジャーニー』(75)『さらば愛しき女よ』(75)『ミズーリ・ブレイク』(76)『エイリアン』(79)『ローズ』(79)『ニューヨーク1997』(81)『ワン・フロム・ザ・ハート』(82)『パリ、テキサス』(84)『若き勇者たち』(84)『対決』(90)『グリーンマイル』(99)『アベンジャーズ』(12)『ラストスタンド』(13)
これは、ある俳優の主なフィルモグラフィー。その人の名は、先日91歳で亡くなったハリー・ディーン・スタントンである。1950~60年代はいわゆる端役だったが、70年代に入ると、役らしい役が付くようになり、名脇役へと出世。『パリ、テキサス』で遂に主役を張った時は、他人事ながら長年の苦労が報われたような気がして、見ているこちらまでうれしくなった。90年代からはさすがに客演的な役が増えたが、最近の『アベンジャーズ』や『ラストスタンド』で“一瞬”その顔を見た時は、健在ぶりを知って、またまたうれしくなったものだった。
スタントンの主演作『パリ、テキサス』を見た際(1985.2.19.有楽シネマ)のメモを転載。
ニューシネマの時代に、英国人であるジョン・シュレシンジャーが、『真夜中のカーボーイ』(69)で異邦人の目から見たアメリカの汚れを描いたが、それと同様に、この映画もヴィム・ベンダースというドイツ人の目から見た、乾き切ったアメリカの風景や心情を描いている。実際、これほどカサカサに乾いたアメリカの姿は、アメリカ人が撮った映画ではお目に掛かれないもの。似たような映画として思い出されるのは、ミケランジェロ・アントニオーニの『砂丘』(70)だが、彼もまた、イタリア人である。
そのカサカサした乾き感に加えて、この映画には、愛の不毛のやるせなさ、切なさ、悲しさが描き込まれているから、見ていてとても気が滅入る。ベンダースが、敬愛する小津安二郎の映画と比較して、自らのこの映画を「もはやつながりを失ってしまった家族像」と語っていたが、深過ぎる愛の果ては破滅しかない、という何とも苦い結末は、むしろニューシネマが好んで描いた、流浪のアウトロー的な主人公の生き方につながる気がする。
こうした面は、脚本を書いたサム・シェパードの色が濃いのだろうと推測するが、そういえば、『砂丘』の脚本にもシェパードが参加していたことを思い出した。なるほど、時代を隔てた2作がつながる理由はここにあったのか。そう考えると、ベンダースとシェパードという、強烈な個性派同士のぶつかり合いが、この一種異様なラブストーリーを作り出したとも思えてくるのだ。
ハリー・ディーン・スタントン、脇役からの叩き上げ。故ウォーレン・オーツをほうふつとさせる独特の風貌が、この映画の主人公トラヴィスと見事に同化し、彼なくしてはこの映画もここまでにはならなかったのでは…と思わされるほどだった。
息子役の子役が、また何とうまいんだろうと感心したが、何とあの少年はカレン・ブラックの息子だという。驚きながらも、やはり血は争えないものだと納得。
30数年前のメモ。そういえばサム・シェパードもつい最近亡くなったなあ。