『ミクロの決死圏』(66)(2010.8.15.TOHOシネマズ六本木ヒルズ「午前十時の映画祭」)
『おとうと』(10)(2011.5.8.日曜洋画劇場)
この映画で吉永小百合と笑福亭鶴瓶が演じた吟子と鉄郎という“賢姉愚弟”は、言わば、『男はつらいよ』シリーズの“愚兄賢妹”の寅とさくらの関係を逆にしたもの。舞台も、だんご屋から薬局、帝釈天参道から住宅街、京成金町線(柴又)から東急池上線(石川台)、江戸川から多摩川、一部東京から大阪へと変化しているものの、店の外を映して季節や出来事、人の心の変化を見せる手法は『男はつらいよ』シリーズと同じだ。
そして、ある一家族を描きながら、そこに民営のホスピスの存在(脇役・横山あきおの存在が光る)など、社会問題を巧みに描き込むところも昔から変わらない。だが若いころは反発を覚えた、この山田洋次の“偉大なるワンパターン”が、自分が年を取るに連れて心地良いものとして映るようになってきた。
この映画には姉弟のほかにも、姑嫁娘という3代の女性の姿が描かれる。特に3人が共にする、最初と最後の食事の場面でさりげなく月日や心情の変化を見せる演出が秀逸だ。ボケかかった加藤治子の姑が毛嫌いしていた鉄郎のことを、「何だかかわいそうになっちゃってね」と語るところがおかしくも悲しい。
やっかいだけど切るに切れない家族という存在は年を取るほど重くなる。そして悲劇と喜劇は常に紙一重だということ。これも山田洋次がずっと変わらずに語ってきたことだ。
鉄郎が大好きな『王将』は、実在の大阪の棋士・坂田三吉と女房の小春をモデルに描いた北条秀司原作の戯曲による。村田英雄が歌って大ヒットした『王将』(西条八十作詞、船村徹作曲)は後に出来た曲。
親が言うには、「『王将』はお前が初めて覚えた歌で(うちにシングルレコードがあったのだ)、子どものくせに“吹けば飛ぶような将棋の駒に~”とか“愚痴も言わずに女房の小春~”などとよく歌っていた」らしい。全く嫌なガキだ。
『おとうと』(60)(2011.6.24.)
川口浩演じる碧郎の「なんだか薄っすらと哀しいんだ」という名セリフが、この映画を貫く心情だろう。先日、この映画をモチーフにした山田洋次の『おとうと』(10)を見た時、ラストの腕をリボンで結ぶ姉弟の姿以外は、あまり共通点はないと感じたのだが、今回、こちらを見直してみると、姉の名前がげんと銀子、弟が碧郎と鉄郎となんとなく似ているし、最後に鍋焼きうどんを食べるところが同じだったことに気付いた。なにより、家族(姉弟)とはなんとやっかいなものかというテーマが、形こそ違え共通するものだった。
監督・市川崑、脚色・水木洋子、撮影・宮川一夫、音楽・芥川也寸志という見事なスタッフワーク、不器用な父母を演じた森雅之と田中絹代の好演、そして大正時代を表現する銀残しの効果は素晴らしいが、独特のカメラワークを駆使する、いわゆる“崑タッチ”が少々鼻に付くところもあった。
『ビッグ』(88)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/0cc7fbc7013ff0d4ebad286610cd3c15
立川談志が和田誠との対談でこんなことを語っていた。「~無名でこういうこと言うやついないかね。俺は一介の自転車屋のおやじだけど、こんなに映画観てるっていうやつ。~そういう人に聞きたいね。~書いたものに対して、よく分かってくれた、というのは1%で、99%は俺の映画論というのがあるはずだよ。それを読みたいね」と。
以上は、初めてこの本を読んだ1994年7月時のメモ。25年後の今は映画評論家はほぼ死滅し、逆にインターネットがあるから、無名の人々の映画に対する声も広がったが、中には誹謗中傷やヒステリックな文章も多い。自由に語ることにはそれなりの責任や、相手に対する気遣いも必要だと思うのだが…。
エンタメOVOに連載中の
『ほぼ週刊映画コラム』
今週は
数学的な見地から戦艦の建造や構造を描いた
『アルキメデスの大戦』
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