『1900年』(1982.12.1.新宿シネマ2)
最終日の最終回に飛び込み、5時間あまり立ちっ放し。年に3回の映画半額デーは、映画のはしごをすることにしているのだが、この映画の立ち見は、さすがに肉体的にはつらかった。だが、それだけの労力を要しながらも、見終わって満足感を得たということは、この映画に見る者を引き付ける力があったということなのだろう。
この映画は、1900年のイタリアで、ほとんど同時に生を受けた地主と小作人の息子という相反する2人の家系を軸にして、第一次世界大戦、ファシズムの台頭から第二次世界大戦の終了までのイタリア現代史を語っていく。
先に見た、クロード・ルルーシュの
『愛と哀しみのボレロ』(81)が、欧米各国の近代史をうわべだけ描いて、それをラストでひとまとめにし、無理を感じさせたのに比べると、この映画は舞台をイタリアの一地方に絞ってたっぷりと見せてくれる。その中から、地主と農民、それぞれの変遷や、ファシズムの残酷さ、民衆のたくましさなどが浮かび上がってくるのだ。
冒頭、赤旗の農民たちに小突き回される黒シャツ隊のドナルド・サザーランドの姿が映る。後半に映る彼のファシストとしての残虐行為をまだ見ていないわれわれにとっては、これもひどく残酷な行為に見えた。つまり黒シャツ隊も赤旗も、貧しさのあまり行き着くところは暴力であるということ。
そして、ラストで元地主のロバート・デ・ニーロが吐く「地主は生きている」というセリフに象徴されるように、ファシズムが終わっても、特権階級と農民、支配者と被支配者という構図は変わらない。地主の代わりに、新たに解放軍という名の支配者が誕生しただけなのだ。
この映画の舞台であるイタリア、そしてドイツと日本は、第二次大戦中にファシズムを推進した同盟国だった。それを考えると、イタリアでこの映画が作られ、ドイツでは
『ブリキの太鼓』(81)が作られと、他の二国では映画の中でファシズムの本質を描いているというのに、日本ではそうした映画が見当たらないのはつくづく残念だ。
【今の一言】横浜にあるノベチェントという映画館の名前は、この映画の原題から取られているのだとか。