『新・喜びも悲しみも幾年月』(86)(1986.7.4.銀座文化)
全国各地の灯台を転々としながら、海と航路の安全を守り続ける灯台守。彼とその老父との心のふれあいを中心に、厳しく地味な仕事に挺身する灯台守一家の生活を通して、父と子、夫婦の愛を描く。
前作『喜びも悲しみも幾年月』(57)から30年近い歳月が流れたのに、なぜ今さら新版を作る必要があったのか、という疑問は最後まで消えなかったし、何年間かの出来事を追っているのに、時の流れの描写が淡白で、テンポの甘さが目に付いた。前作は、3時間近い映画であったからか、時の流れの描写に無理がなく、一気に見せられた覚えがあるだけに、今回はちょっと残念な気がした。
もっとも、前作にあった、戦争あるいは灯台員の苦労といったドラマチックな背景に取って代わるものが、今の時代にはない、というハンディは確かにあったのだろうが、もとより、それを承知で撮ったのだから、木下惠介にしては平板だなあ、という印象は拭えない。これは彼の老いによるものなのだろうか。
この映画の前に撮られた『この子を残して』(83)を見た時にも感じたのだが、木下の映画は、あまりにも善意の正攻法で撮られているため、その全てにうなずけない、ひねくれた自分のような者は、最近の彼の映画には気恥ずかしさすら感じてしまうのだ。
例えば、この映画で描かれた夫婦、父と子、舅と嫁、子どもたち、隣人たちの、善意で固められた姿は、ひどく現実離れをしている。山田洋次の寅さんをはじめとする一連の映画も含めて、これぞ松竹大船調と言ってしまえばそれまでなのだが、何か釈然としない。嫌でも、木下惠介のズレや老いを感じさせられてしまうのである。
主人公の灯台員(加藤剛)の父親を演じた植木等が、黒沢明の『乱』(85)に続いて、見事なコメディリリーフぶりを発揮して、この映画を随分救っている。巨匠に重宝される今の姿は、「無責任」シリーズを“責任を持って”演じていた賜物なのだろう。
【後記】植木等は、この後、無責任男がリバイバルヒットして大いに気を吐いた。
98年に黒澤明と木下惠介が相次いで亡くなった時、この映画が追悼放送された。(1999.1.9.)
映画公開時、木下恵介の“時代とのズレ”には少なからず気づいていた。ところが今回、木下恵介自身の死、という事実を前にこの映画を観直すと、意外にも明るい、半ばコメディー・タッチの演出がなされていたことに気づいた。
もともと、木下は明るいコメディーに才があったのに(『お嬢さん乾杯』(49)『破れ太鼓』(49)『カルメン故郷に帰る』(51)…)、何故かメロドラマやホームドラマの方に移っていってしまったのだが、最後は本分に戻ろうとしていたのかもしれないと思うとちょっと切ない気もする。
そしてこの映画のラストシーンで、焼き捨てるように頼まれた祖父のアルバムを拾い上げ、「おじいちゃん、これはオレがもらっておくよ」と後継ぎ? を宣言する孫の姿にこそ、彼が若い世代に託したかった希望や本音が出ていたのではないだろうかと思った。