『ほぼ週刊映画コラム』
今週は
若手俳優たちを得て作られた新機軸の青春群像時代劇
『合葬』

詳細はこちら↓
http://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/week-movie-c/1017386
1950年代、ミッキー・マントルらと共にヤンキースの黄金時代を支えた強打のキャッチャー、ヨギ・ベラが90歳で亡くなった。
ベラは、MVP3回、オールスターの常連、しかも背番号8はヤンキースの永久欠番で、野球殿堂にも入っている大選手なのだが“ヨギイズム”と総称されるその愉快な言動でも有名だった。
以下はそのほんの一例。
「今じゃ5セントは10セントの価値もない」
「彼の前評判はここに来る前に聞いていた」
「グローブは手のために付けてる」
「考えながら打つなんて同時にできやしない!」
「試合は終わるまで終わらない」
「まだあんなことやこんなことが起こってもないのに、あんなことやこんなことが言えるわけないだろう!」
(あるレストランへ行かない理由を)「あそこはものすごく混んでいるからもう誰も行かないんだ」
「野球は90%が精神で、半分は体力だ!」
「普通、1時から4時までの2時間、昼寝をするんだ」
「ピザは四つに切ってくれ。六切れは食べられないから」
(スティーブ・マックィーンの映画を見ながら)「死ぬ前に撮ったはずだ、これは」
「電車を乗り間違えるって分かってたんだ。だから早く家を出たんだ」
「本当は自分でも何を言っているのか分からない」
ちなみにベラは『ミンクの手ざわり』(62)というケーリー・グラントとドリス・デイ共演のコメディ映画に、マントルやロジャー・マリスらと共にカメオ出演したこともある。『くたばれ!ヤンキース』(58)のゲームシーンにも出ていたかな。
落語家の伝記映画というのもある。
沢島忠監督の『おかしな奴』(63)では、渥美清が「歌笑純情詩集」で人気を得た三遊亭歌笑を演じている。歌笑は交通事故で亡くなるのだが、同年の『拝啓天皇陛下様』で渥美が演じた落語の世界にいるような主人公ヤマショーも交通事故で亡くなるという結末だった。
マキノ雅弘監督の『色ごと師春団治』(65)では、藤山寛美が桂春団治を演じている。春団治といえば、「芸のためなら女房も泣かす」の一節が有名な「浪花恋しぐれ」でも歌われたが、その女房役は南田洋子。ええ味出してました。どちらも、おもしろうてやがて悲しき物語だった。
架空の落語家を主人公にした映画としては、森田芳光監督の『の・ようなもの』(81)が筆頭。若い頃、主人公の志ん魚(しんとと)を演じた伊藤克信に似ているとよく言われた。
志ん魚の師匠役は本物の入船亭扇橋。志ん魚が、「人形焼の匂いのない仲見世は寂しい、思い出の花屋敷に足は向く。シントトシントト…」といった具合に、目の前の風景や地名をネタに描写していく「道中づけ」を行うシーンがなんともいい。
津川雅彦がマキノ雅彦名義で監督した『寝ずの番』(06)では、兄の長門裕之、中井貴一らが落語家を演じた。津川はミムラと共演した中原俊監督の『落語娘』(08)では談志のような落語家を演じている。
平山秀幸監督の『しゃべれどもしゃべれども』(07)では、国分太一が古典大好きの二つ目、今昔亭三つ葉を。師匠役は伊東四朗。
深川栄洋監督の『トワイライトささらさや』(14)では大泉洋と小松政夫が師弟役。弟子の霊が師匠に乗り移る、つまり小松が大泉を演じるという愉快なシーンがある。そのほか、ピエール瀧が落語家に扮した林家しん平監督の『落語物語』(11)も。
また、外伝として、春風亭柳昇が自らの従軍体験を記した原作を、フランキー堺の主演で映画化した『与太郎戦記』(69)、同じく高島忠夫主演の『陸軍落語兵』(71)もある。昔の落語家は文章も達者だったのだ。
最後に、江戸時代の貧乏長屋を舞台にした黒澤明の『どん底』(57)に伝わる逸話を。黒澤は撮影前に長屋の雰囲気を知らせるために、古今亭志ん生を撮影所に招いてスタッフ、キャストの前で一席語ってもらったという。
で、その志ん生が落語家役で出演した『銀座カンカン娘』(49)をテレビで見たら、彼だけが別の空間にいるような、何とも不思議な存在感を醸し出していたのに驚いた。
蛇足
東銀座の東劇でたまに「シネマ落語」をやっています。
「違いのわかる映画館 東劇」はこちら↓
http://season.enjoytokyo.jp/cinema/vol20.html
『内村さまぁ~ず~』を見て『落語野郎』シリーズのことを思い出したのだが、以前「映画の中の落語」について調べたことがあったので書いてみようと思う。
まずは、落語を下敷きにした映画について。
榎本健一、古川緑波、柳家金語楼、森繁久彌、森川信、清水金一、木戸新太郎、三木のり平、トニー谷…。当時人気の喜劇俳優が多数出演し、長屋ものを下敷きに映画化した東宝の『落語長屋』シリーズ(54~)があるが、さすがにこれは見ていない。というか見てみたい。
『落語長屋』の出演者は舞台の人が多いが、この流れが、テレビ寄席の人気を反映して作られた『落語野郎』シリーズ(66~)につながる。
こちらは、桂米丸、歌丸、春風亭柳好、柳朝、三遊亭歌奴、三笑亭夢楽、月の家円鏡、立川談志、柳家小せんといった落語家のほか、牧伸二、東京ぼん太、晴乃チックタック、てんぷくトリオ、Wけんじらが出演。
シリーズの中には舞台を現代に移したものもあり、彼らの「あーやんなっちゃった」「夢もチボーもないね」「いいじゃなぁ~い」「びっくりしたなあもう」「やんなっ」などの懐かしいギャグが見られる。
子供の頃、テレビの「お笑い七福神」でいつも罰として顔に墨を塗られていた小せんが大好きだった。
そのほか、川島雄三監督、フランキー堺主演の『幕末太陽傳』(57)は「居残り佐平次」「三枚起請」「品川心中」「突き落とし」を、マキノ雅弘監督、中村錦之助主演の『江戸っ子繁昌記』(61)は「芝浜」を、山田洋次監督、ハナ肇主演の『運が良けりゃ』(66)は「妾馬=八五郎出世」「黄金餅」「らくだ」「さんま火事」などを下敷きにしている。
どれも単純な人情噺ではなく、少々ブラックなユーモアの中に庶民のバイタリティーを描いているところが印象に残る。
(続く)
個人の依頼に合わせてシナリオを書き、メンバーが架空のキャラクターを演じて依頼を解決する劇団兼探偵事務所「エンジェル」に舞い込む騒動を描く。テレビバラエティーから派生した企画映画だけに、次から次へと登場する芸人たちの小ネタを集めたコント集のようなところもある。
架空のキャラクターを演じて人をだますというアイデアは、『スティング』(73)や三谷幸喜の『ザ・マジックアワー』(08)にも通じるところがあってなかなか面白いが、全体的にはテレビの延長という感じは拭い切れない。もともとのバラエティー番組を知らない人たちが、これに映画料金を払って見るかと考えるとちょっときついのではと思う。
などと真面目に書いてきて、いや待てよ、そう言えば子供の頃、当時人気のあった落語家や芸人を集めて作られた「落語野郎シリーズ」なんて映画を見たことを思い出した。
こういう映画は昔っからあったのだから、今さら「映画らしくない」などとしたり顔で批判してはいけない。そもそも映画の魅力とは“何でもあり”という懐の深さにもあるのだから、と気が付いた。
3人へのインタビュー記事あり。ここです↓
http://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/1015801
原題は「サンアンドレアス断層」。ネバダからカリフォルニアにかけて史上最大規模の大地震が発生。主人公のレスキュー隊員(ドウェイン・ジョンソン)は妻と娘を救うために奮闘する。
特撮を使って表現された、これでもかの地震や津波によるカタストロフィのシーンに驚かされる反面、救護用ヘリコプターの私物化? など、主人公が妻と娘を救うためにしか動かない、という展開にあ然とさせられる。
主人公をレスキュー隊員ではなく、一般市民や元軍人などにするだけでも全く違う印象になったはずなのだが…。ジョンソンが主演ではそれは最初から無理な話なのか。かつての『大地震』(73)などに比べれば、地震のシーンは恐ろしいほどリアルだが、肝心のドラマ部分はむしろ退化したとも思える。
これが良くも悪くもハリウッド映画の特徴なのだと言ってしまえばそれまでだが、東日本大震災を経た日本では、地震や津波の悪夢がよみがえるリアルさにも増して、この主人公の公私混同、職権乱用、ミーイズムは受け入れ難いのではないかと思う。
By the WAY.娘役のアレクサンドラ・ダダリオは今後が期待される新星。こんな娘なら全てを放り出しても助けたくなるって? それはまた別の話だ。
“一瞬の輝き”を求める物語
米名門少年合唱団を舞台に、恵まれない家庭環境に育った少年ステット(ギャレット・ウェアリング)が、厳格な指導者カービル(ダスティン・ホフマン)と出会い、類まれな美声の才能を開花させていく様子を描く。
監督のフランソワ・ジラールは『レッドバイオリン』(98)など音楽物を得意とするだけに、少年たちの美声をたっぷりと聴かせながら、才能への嫉妬やいじめなど陰惨なシーンもきちんと描いている。
「ボーイ・ソプラノ」とは、少年から大人になるまでのほんのわずかな期間しか出せない声のため“奇跡の声”とも言われる。それを知ると彼らの間に嫉妬やあせりが生じるのも当然だと思え、運命の残酷さを感じて切なくなる。
一方、ステットがカービルに反発し「じいさん、あんたの時間は残り少ないんだよ」と毒づくせりふに象徴されるように、カービルはカービルで残りわずかとなった人生の収拾の付け方に悩んでいるし、若き日に音楽的な才能の無さを教師から指摘されたトラウマを抱えている。だから才能があるのにそれを生かさないステットにつらく当たる。
つまりこの映画は、すぐに変声期を迎える少年と悔いを感じながら生きる老教師が、互いの存在を通して、限られた時間内で“一瞬の輝き”を求める物語なのだ。
ただ、同様に音楽学校の教師と生徒のぶつかり合いを描いた『セッション』とは似て非なるものだといえよう。この映画の場合は、波乱の後に二人に訪れる定石通りのハッピーエンドが心地良く映るからだ。
ホフマン自身も若き日に音楽の道で挫折したというから、カービル役は自身とも重なる部分があったのではないかと思われるが、この点はどうだろう。
ホフマンとウェアリングのほか、ステットの才能を見抜く教師役のデブラ・ウィンガー、ステットを捨てた父親役のジョシュ・ルーカス、カービルにライバル心を抱く同僚教師のエディ・イザード、若い教師役のケビン・マクヘイル、そして貫禄の校長役キャシー・ベイツと、脇役たちもそれぞれ名演を見せてくれる。
By the Way.ステットが独りで迎えたクリスマス。テレビにフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』(46)が映る。話には聞いていたが、アメリカでは毎年こんな風に放送されているのかと納得した。