『ほぼ週刊映画コラム』
今週は
“女優・大島優子”にとってエポックメーキングな作品になった
『ロマンス』
今週の名セリフは↓
「最近の若い子は映画を見ないから…」
by桜庭洋一(大倉孝二)
詳細はこちら↓
http://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/week-movie-c/1013614
箱根の景勝地を舞台に、ロマンスカーのアテンダントの北條鉢子(大島優子)と映画プロデューサーの桜庭(大倉孝二)との、たった1日の出会いと別れを描く『ロマンス』(8月29日(土)公開)。
公開に先駆けてタナダユキ監督にインタビュー取材。大島優子には「ぎりぎりのブサイクな顔でお願いします」と言ったこともあったとか。
タナダ監督には、2007年に『赤い文化住宅の初子』公開時にも話を聞いたことがあった。その時の締めの言葉は「観客に見てもらって映画は完成する」だったが、今回も最後は同じような意味の言葉で締めくくった。映画に対する彼女の姿勢は終始一貫しているのかもしれない。
↓こちら
http://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/1009897
ここまで不幸を描かなければダメなのか
舞台は米ルイジアナの田舎町。高校時代に出会い、互いに深く愛し合いながらも、不幸な事件のために別々の道を歩んだドーソンとアマンダ。
20年ぶりに再会した二人は、互いへの思いを再燃させるが…。
現在と過去を交差させながら描く一種の悲恋ものだが、ダブルキャストが似ていないのが致命的。これではとても同一人物の過去と現在を描いているとは思えないし、イメージが異なるので物語に一貫性が感じられず、感情移入ができない。
そして、父親からの虐待、貧困、親友(いとこ)を誤殺、服役、アマンダとの別れと、こちらの予想を遥かに上回る形で次々にドーソンの身に不幸が起きる。ラストも意外性を狙ったのだろうが「おいおいそこまでやるか」と思わされる。
これは、ニコラス・スパークスの小説を原作とする映画の定番の展開だが、あまりにも、泣かせるためや“いい話”に仕立てるための作為が見えて興ざめさせられる。ここまで不幸を描かなければ“泣かす”ことはできないと考えたのなら、それは大いなる勘違いだったと思う。
by the way. この映画には、ドーソンとアマンダが、アービング・バーリン作曲の「What'll I Do?」をバックに踊るシーンがあったが、同じく身分違いの実らぬ恋を描いた『華麗なるギャツビー』(74)でも、ギャツビー(ロバート・レッドフォード)とデイジー(ミア・ファロー)が、この曲をバックに踊るシーンがあった。
『華麗なるギャツビー』の「What'll I Do?」は“デイジーのテーマ”として、ネルソン・リドルがアレンジし、『続・激突!/カージャック』(74)や『ダイ・ハード』(88)に出ていた俳優のウィリアム・アサートンが歌っている。参考にしたのだろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=CNT-W--A6rA
ダブルキャスト、性格の描き込みの失敗でだいぶ損をしているが、アマンダを演じたミシェル・モナハンに熟女の魅力あり。たまたま同じ日に見た『ピクセル』では、一転、シングルマザーの軍人をセクシーかつコミカルに演じていた。
そう言えば、彼女は『ミッション:インポッシブル』シリーズでトム・クルーズ扮するイーサンの妻役を演じていた。『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』で三連発か、と思ったが、今回は出ていなかった。
大昔ならローレン・バコール、少し昔ならキャスリーン・ターナー、きついまなざしが魅力的なクールな美女という系譜に連なる女優。今後が楽しみだ。
久しぶりにテレビで再見。
少年の目を通して戦争の実体を描く
舞台は第二次大戦下の上海。スティーブン・スピルバーグが、両親とはぐれ、日本軍の捕虜収容所でたくましく生きていく、英国人少年ジム(クリスチャン・ベール)の目を通して戦時下の実体を描きました。原作はJ・G・バラードの半自伝的な長編小説。『太陽の帝国』とはイギリスに代わって上海を占領した日本のことを表しています。
この当時のスピルバーグは、評論家と観客の双方からSFやファンタジー専門の監督と見なされていましたが、『カラーパープル』(85)とこの映画で面目を一新しました。この映画には、UFOも宇宙人もインディ・ジョーンズのようなヒーローも、あるいは奇跡も一切登場しません。ここで描かれるのは戦時下という極限状態だけなのです。ゼロ戦のパイロットに憧れ、初めは冒険をしているような感覚を抱いていたジムが、徐々に精神的に追い詰められていく姿が胸に迫ります。
ラストでジムは流浪の果てに両親と再会しますが、彼の目つきはもはや普通ではありません。それは、例えば戦争で精神を病んでしまった兵士たちの目とそっくりでした。戦争が人間をどれだけ大きく変え、歪めてしまうものなのかということを感じさせられて、思わずゾッとするシーンです。そのせいでしょうか、最近のベールを見ると「ちゃんと大きくなって良かったなあ」などと思ってしまうのです。
ジムが透き通るような声で歌うイギリスのウェールズ地方に伝わる子守歌「SUO GAN」が耳に残ります。ファーストシーン、終盤の重要なシーン、そしてラストシーンでも流れますが、それぞれが全く違う意味を持った曲として見る者の心に響きます。この映画のテーマ曲ともいえる曲です。
https://www.youtube.com/watch?v=6lapculOfR0
All Aboutに「80年代のおすすめ戦争・歴史映画【洋画】」で書いたものに加筆して転載
http://answers.withabout.jp/topics/detail/36914/
マーリンズのイチローが日米通算の安打数で、ついにメジャーリーグ歴代2位のタイ・カップを超えた。
イチローは、これまでもさまざまな安打記録を塗り替えることで、例えばシーズン安打記録保持者だったジョージ・シスラーのように、忘れられた名選手たちをあの世から球場に呼び戻すというまるで映画『フィールド・オブ・ドリームス』のような役割を果たしてきたが、いよいよカッブの番が来た。
そのタイ・カッブとはどんな選手だったのかというと。
タイ・カッブ(1886~1961)、本名タイラス・レイモンド・カッブは、1905年から28年まで主にデトロイト・タイガースで活躍した左投げ左打ちの外野手。ニックネームは出身地からジョージア・ピーチ。その実績から“球聖”とも呼ばれる。
24年間のメジャーリーグ生活のうち、ルーキーイヤー以外の23年間は全て打率3割以上をマーク(4割以上も3回)。07年から9年連続で首位打者となり、1年おいて再び3年連続で首位打者を獲得した。通算安打4191本はピート・ローズに次いで2位、通算打率366は今もメジャーリーグ記録として燦然と輝く。
バットを構える時は両手の間を3センチほどあけるが、打つ瞬間は両手を付けるという独特の“スライディング・グリップ”でタイミングを取り、右へ左へスプレーヒッティングで打ち分けてヒットを量産した。
また駿足の持ち主でもあり、盗塁王になること6度、通算892盗塁を記録している。ベーブ・ルース登場以前のヒット主義の野球を支えたとんでもない選手なのだ。
だかその一方、スパイクの歯をやすりで研ぎ、盗塁の際には相手選手にその歯を向けてスライディングするなどのラフプレーを得意とし、暴言、暴力は数知れず、人種差別主義者でアルコール依存症でもあった。
それ故、相手チームはもちろん、味方の監督、コーチ、選手、そしてホームのファンからも嫌われたという。「最高の技術と最低の人格」「メジャーリーグ史上最も嫌われた男」とも言われる。
カッブの打撃フォームを見事に再現したトミー・リー・ジョーンズ。
さて、そのカッブと映画について。『フィールド・オブ・ドリームス』(89)では、“夢の球場”に名選手のゴーストたちを連れてきた“シューレス”ジョー・ジャクソン(レイ・リオッタ)が、「タイ・カッブも来たがったけど、あいつには生きていた時の恨みがあるから連れてこなかった」と言うシーンがあった。それを見て、おいおいそこまで嫌われていたのか、とちょっとかわいそうになった覚えがある。
またカッブの自伝として、ロン・シェルトンが監督し、トミー・リー・ジョーンズがカッブを演じた『タイ・カップ』(94)(何故か日本では90年代までカップと表記されていた)がある。
この映画は、名選手としてではなく、カッブが抱える屈折、弱さ、孤独について描いていた。カッブに成り切ったトミー・リーの鬼気迫る演技が素晴らしかった。
引退後、カッブはルース、シスラーらと共に最初に野球殿堂入りしたが、式典に遅刻して記念写真には写っていない。
(前列左から)エディ・コリンズ、ベーブ・ルース、コニー・マック、サイ・ヤング、(後列左から)ホーナス・ワグナー、グローバー・アレキサンダー、トリス・スピーカー、ナップ・ラジョイ、ジョージ・シスラー、ウォルター・ジョンソン
一体何故そんなことが起きたのかも、この映画を見るとよく分かる。公開当時、俺はこの映画のタイトルを勝手に「タイ・カップ~憎み切れないろくでなしについて」とした。
ちなみに自身もマイナーリーグでプレーしたシェルトン監督はケビン・コスナー主演の『さよならゲーム』(88)も監督している。
女の性を描きながら終戦を見つめるという視点は新鮮
1945(昭和20)年、終戦間近の東京、杉並で母と共に暮らす19歳の里子(二階堂ふみ)は、妻子を疎開させた隣家の銀行員、市毛(長谷川博己)の世話をするうちに、“女”としての本能に目覚めていく。高井有一の原作を基に、脚本家の荒井晴彦が監督。里子の心情を象徴するものとして茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」が挿入される。
同時公開中の『日本のいちばん長い日』と同時期の日本を描きながら、戦場でも国家でもなく、女の性を描きながら終戦を見つめるという視点は新鮮。しかも、耐えないヒロイン、空襲のシーンなどの切迫感の薄さ、食事のシーンが多い、雨のシーンがある…など、これまでの終戦直前を描いたものとは異質の感を抱かせる点がユニークではあるが、その分、時代色が薄まった感があるのは否めない。
短期間で少女から大人の女性に変わっていく里子役の二階堂、インテリの中年男が持つ色気やいやらしさを巧みに表現した長谷川が共に好演を見せる。ただ、二階堂の妙なセリフ回しに違和感を覚えた。彼女は「小津安二郎や成瀬巳喜男映画の女優たちを参考にした」と語っているようだが、だとすればそれをうまく消化し切れなかったということなのか。
一方、長谷川は市毛を演じるに当たって森雅之の演技を、荒井監督も庶民の生活を描く際に、成瀬巳喜男の『山の音』(54)や『驟雨』(56)を参考にしたという。今や古い映画は昔の生活を知るためのよすがなのだ。
二階堂ふみへのインタビュー記事あり。 ここです↓
http://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/1010024
国家から見た大日本帝国の葬式
この映画の監督は『独立愚連隊』(59)など戦争アクションを得意とした岡本喜八。どこかアナーキーな雰囲気を漂わせる監督です。その彼が、国家の側から見た終戦を、重厚なドキュメンタリータッチで描いているので、ちょっと意外な取り合わせという感じを受けます。
タイトルは、米英中が発したポツダム宣言を受けて、御前会議で降伏を決定した昭和20年8月14日の正午から、ラジオの玉音放送を通じて天皇がポツダム宣言の受諾を国民に知らせる8月15日正午までの24時間を指しています。
この間、どういう形で降伏するのかをめぐって閣僚たちは延々と会議を続けます。「なにしろ大日本帝国の葬式だからな…」というセリフも吐かれます。ここは、阿南陸軍大臣役の三船敏郎ら、東宝が誇る“軍人役者”たちの独壇場です。その一方、戦争継続を叫び、軍事クーデターを目論む青年将校たちは、終戦を告げる放送をさせてはならじと天皇の言葉を録音したレコード盤を探します。こちらは若き日の黒沢年男らが狂気を含んだ大熱演を見せます。
東宝はこの映画のヒットを受けて「8.15シリーズ」と銘打ち毎年戦争映画を製作していきますが、ほとんどが国家や軍人から見た戦争という視点で描かれ、一般市民はあまり登場しません。
一方、この映画を撮りながら「何かが違う」と感じた岡本喜八は、国家ではなく一兵士から見た終戦としてATGで『肉弾』(68)を撮りました。日本人にとって太平洋戦争とはなんだったのかを知る意味でも対で見ることをお薦めします。
All Aboutに「60年代のおすすめ戦争・歴史映画【邦画】」で書いたものを転載
http://allabout.co.jp/gm/gc/419893/
どうしても性に合わず
『さよなら、人類』と言っても、昔はやった、たまの歌ではない。スウェーデンの鬼才と言われるロイ・アンダーソン監督作。今年のベネチア映画祭でグランプリを受賞した映画のタイトルだ。
この映画は、『散歩する惑星』(00)『愛おしき隣人』(07)に続く“リビング・トリロジー=人生について話”の最終章にあたるそうだが、アンダーソン監督作は初見なので見る前はちょっと構えていた。
ところが、冒頭の死にまつわる落語の小噺のような三つの話。ワインの栓を抜こうとして心臓発作で死ぬ夫、それに気付かず料理を作り続ける妻。臨終が近付いても宝石が入ったバッグを手放さない老母、何とかそれを奪おうとするいい年をした子供たち。船の食堂で突然死した男が注文したえびサンドとビールの行方は…を見て、これはコント集を見るような気持ちで対すればいいのかと考え直した。
そして、狂言回し的にたびたび登場する、“面白くない面白グッズ”(ドラキュラの歯、笑い袋、歯抜けおやじのマスクなど)を扱う2人組のセールスマンの姿を見ながら、やっぱりこの映画は喜劇に違いないと自分を納得させたのだが…。
結局、日本人的な感覚では理解し難いブラックでシュールな不条理劇を、独特の間(ま)で見せられ続け、最後の方では頭がくらくらしてきた。こういう表現方法もあるということは認めるし、試写で見せてもらったので文句を言えた義理ではないのだが、どうしても俺の性(しょう)には合わない映画だった。
by the way.後で知ったのだが、2人組のモデルは日本では“極楽コンビ”と呼ばれたスタン・ローレル&オリバー・ハーディだという。