『エノケンのホームラン王』(48)(1991.1.25.)
ジャイアンツファンの肉屋の健吉(エノケン)は、長年の夢をかなえてジャイアンツにマスコットボーイとして入団。憧れの選手と全国を回るが…。三原脩監督、川上哲治、青田昇ほか、当時の巨人軍の選手が総出演。監督・渡辺邦男、音楽・栗原重一。
戦後間もない昭和23年の映画。復興に向かう世相と当時の野球熱の高さがうかがえ、なかなか興味深かった。しかも、当時のジャイアンツの選手たちの動く姿がたっぷりと見られるというおまけ付き。実際、エノケン云々よりも、伝説として聞いただけだった彼らのプレーぶりの方に目が行ってしまった。
登場する主なメンバーは
総監督・三原脩。この年は2位。50年に辞任し、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトの監督を歴任。独特の采配から“三原魔術”と呼ばれる。
監督・中島治康。49試合、152打数37安打、本塁打4本、打点20、打率243。日本初の三冠王。この年監督兼任。50年大洋へ移籍。
捕手・内堀保。87試合、253打数56安打、本塁打0本、打点16、打率222。現役最後の年。スカウト、コーチを歴任。沢村栄治の球を受けた生き証人。
一塁手・川上哲治。135試合、504打数150安打、本塁打25本、打点105、打率298。この年の本塁打王。ご存じ“打撃の神様”。後のV9監督。
二塁手・千葉茂。135試合、522打数148安打、本塁打14本、打点57、打率284。ニックネームは“猛牛”。川上との監督争いに敗れ近鉄の監督に。バファローズの由来となった。
三塁手・山川武範。126試合、457打数122安打、本塁打2本、打点36、打率267。戦後、ジャイアンツでプロ野球に復帰。
遊撃手・白石勝巳。117試合、392打数86安打、本塁打3本、打点15、打率219。ニックネームは”和製キャグニー”。ジャイアンツ復帰1年目。50年に広島に移籍。後に監督としてカープの基礎を築く。
左翼手・平山菊二。140試合、525打数143安打、本塁打11本、打点68、打率272。ニックネームは”塀際の魔術師”。自己最多本塁打の年。50年大洋に移籍。
中堅手・青田昇。140試合、569打数174安打、本塁打25本、打点99、打率306。ニックネームは”じゃじゃ馬”。この年川上と本塁打王を分け合う。53年大洋へ移籍。阪急、阪神などでコーチを歴任。
右翼手・呉新亨。96試合、246打数54安打、本塁打1本、打点19、打率220。台湾出身。萩原寛と改名。
宇野光雄。22試合、38打数6安打、本塁打0本、打点2、打率158。ニックネームは”おとぼけのウーやん”。54年に国鉄へ移籍。
武宮敏明 88試合、217打数38安打、本塁打2本、打点15、打率175。後の鬼寮長。
投手
中尾碩志。47試合、27勝12敗、投球回343、奪三振187、防御率1.84。自己最多勝。後にピッチングコーチ。
川崎徳次。47試合、27勝15敗、投球回318.1、奪三振82、防御率2.31。自己最多勝の年。50年西鉄へ移籍。西鉄、阪神などでコーチ。
藤本英雄 22試合、8勝5敗、投球回131、奪三振51、防御率1.74。ジャイアンツ復帰1年目。翌年から5年連続二けた勝利。日本初の完全試合を達成。
多田文久三。31試合、13勝9敗、投球回206.2、奪三振63、防御率2.96。56試合、114打数25安打、本塁打1本、打点9、打率219。打者との二刀流。
小松原博喜 34試合、4勝6敗、投球回134.1、奪三振54、防御率2.27。67試合、106打数26安打、本塁打1本、打点14、打率245。多田同様の二刀流。
以上が、この映画に登場した当時の主力選手たち。50年の2リーグ分裂の際に他チームに移籍した選手が多い。49年に水原茂がシベリアから帰国し、三原は監督の座を追われ西鉄へ。後に日本シリーズで水原に借りを返す。同年、別所毅彦が南海から移籍してくる。