かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

今日は中秋の名月の日でした。

2015-09-27 | 気ままなる日々の記録

夕方、家内が「コンビニへ行くけど欲しいものは無いですか?」と声を掛けてくれた。僕はすぐに「今日は中秋の名月だから日本酒が欲しいね」と頼んだ。

  僕は発病前頃から常温の日本酒が好きになり、日本酒は本当に美味しいと思うようになっていた。若いころは友人の意見に誘われるようにブランデーのオンザロックがおいしいとか、ウイスキーはジョニー黒に限るなどと云っていたが、あのころは本当に自分の舌で味わうのではなく世間の評判通りのことを云って、いわゆる達人ブッテいたようだ。そんなことを気にせず、本当に自分の感じた味を尊重するようになって、常温の日本酒が本当に美味しいと思えるようになった。

夕方5時ごろ散歩に出て東の空を見た。大きな月が雲間から顔を出し始めていた。久しぶりに体が震えるほど感動し、急いで常温の日本酒を味わった。やはり美味しい。夕食のお膳を見て笑った。何時ものパッとしないお膳であったが「お月見団子と書いた袋の中にどんぐりほどのおまんじゅうが二つ入っていた。相変わらずオソマツなお膳であった。急いで買ってきてくれた紙パックの日本酒を味わった。やはり美味しい。暖かさが体中に広がるのも心地よい。

「名月や、朴歯の下駄で 肩を組み 放吟せしは 何時の日か」

 現在20時14分,月は煌々と天空にあった。「月が鏡であったなら・・・・」と云う流行歌があったことを思い出したが後が続かない。確か、きっと今頃は同じ月を見てる恋人の顔が月に映り、自分の顔も恋人がみているだろうに、と云うような歌詞であったように思います。

  [月がとっても青いから遠回りして帰ろう」と云う歌謡曲もありましたね。こちらは節まで覚えています。

 

  

 

 

 

 

 


9月26日は、56年前、伊勢湾台風の来た日で忘れることはできません。

2015-09-27 | 気ままなる日々の記録

遠い昔ですが僕が初めて就職した年でこの日のことはよく覚えています。この日は土曜日だったと思います。

  母と妹は御園座へ芝居を観に行っていて。兄は大阪で、家には僕と病身の父と祖母だけがいました。

  夜暗くなったころから風が強くなり南側の雨戸もガラス戸も風に押されて弓なりになり今にも折れそうでした。

  父がここを破られたら風が家の中に吹き込みその結果家が持ち上げられる状態になり、そうなると家が簡単に北側にずれて土台石から外れて傾く。

 何としても南側の雨戸もガラス戸も破られないように守らなければならない。と云うので、急いで畳を上げて、ガラス戸にもたせ掛け弓なりになるのを防いだ。座敷側と台所側で6枚ほどの畳を横にしてガラス戸にもたせかけた。

  そのうちに玄関の戸が破られそうになっていることに気付き慌てた。

 我が家は明治初年の建設で玄関の戸は木製の大きな木戸で。真ん中にくぐり戸も付いている畳4枚分の大きさのとであった。

 いそいで、雨がっぱを着て外に出て勿論飛来物に気を付けながら丸太を4本ほど担ぎ込み玄関の木戸が破られないように筋違いを入れ力学的な考察を重ねつつあちこち縄で縛り、工事を終わったころには風も少し静まった。

 当時テレビは無くラジオだけであったが停電でそれもきけず。

 父と相談してもう寝ようということにして翌朝まで熟睡した。床についたのは12時前後だったと思われます。翌朝起きて、丸太の筋違いを外して外へ出たときにはびっくりした。何時も見えていた茅葺の前の家がすっかりなくなっていたからです。庭は折れて飛んできた木の枝で溢れ朝食もそこそこにして後片づけに精を出した。

 母と妹が帰ってきたのはお昼頃だった。随分苦労して帰ったようでその話は何度も聞かされた。月曜日は出勤した。いつもは木曽川堤を走る名鉄バスを利用していたがこの日は未だ不通だったので自転車で出かけたが、道に大木が倒れていて自転車を降り、自転車を持ち上げて大木を越え、それから自分が木を超えてすすむということで、通勤に何時間もかかった。

オソマツ君が初めてガソリン・エンジン付きチエンソーというものを、見たのはこの木曽川堤の復旧工事の方だこれを使って倒れた大木を切って道路の両脇へ片づけバスやトラックが通れるようにしておられたふっきゅう工事現場であった。ものすごい威力で太い木を切り刻んで大木を道の両脇へ片づけておられ、ただただ見とれるばかりであった。昔ながらのノコギリデこの木を切っていたら何日もかかるであろうと思われた木がみるみる切られていくさまは圧巻であった。

かくして数日でバスが通るようになりそれからは復旧工事のトラックが列をなして通るようになった。

刈取りまじかの稲田。今年は、台風の影響もなく、健やかに育っています。農家の方々のご苦労に感謝しつつ、更に台風が来なかったことに関して神々に感謝したい気持ちです。


昨日ここで素敵なおばあちゃまにお遭いしました。

2015-09-27 | 気ままなる日々の記録

 この施設は1階と2階が吹き抜けになっていて、2階は中央部分に床が無く、2階にギャラリーのように楕円形の通路があります。

  そこを、手押し車を押しながらしっかりした足取りでぐるぐる歩いておられるおばあちゃまに、引き込まれるように声を掛けていました「リハビリですか?でも、しっかりした足取りでもう手押し車はいらないようにお見受けしましたよ」と。おばあちゃまは「いえ、まだまだですよ。とおっしゃって、およそ次のような経緯をお話になりました。

 数年前、胆管がんが見つかったけど、私が高齢だったので、その癌を取り除く手術に体力が耐えられるか疑問だという診断がされた。二人の息子がセカンドオピニオンっていうのですか、もう一軒別のお医者様に診て貰って意見を聞こうといいだして、此処の病院で診て貰ったら「そんなことはやってみなければわかりませんよ。ただ、手術前にはいろいろな検査をして大丈夫だろうと思われた時しか手術はしませんがね」ということでした。  

   そこで、息子たちが相談して「おふくろ、此処のお医者様にお願いしようよ」ていうのです。「手術をしなかったら、がんが大きくなってあちこちに転移してそこでも大きくなって死ぬのを待っているだけになてしまう。そんなの耐えられないよ。ガンで死ぬのも随分痛いそうですね。それでね此処へお願いして結局手術をして頂いたの。癌は全部きれいにとっていただけたそうよ。それでね、あとは手術の跡が完全に回復するのにちょっと時間がかかって。やっと起きて歩いてよろしいとなったときには、体中の筋肉が衰えてしまっていて、立ってることも難しく、全然歩けなくなっていましたの。

 人間の体って本当に怠け者ですねえ。其れで私にリハビリの先生が付いてくださって毎日訓練を受けましたの。何度も筋肉痛になりましたよ。頑張りすぎた日にはこむら返していうの?ふくらはぎのところがかちかちになって、凄く痛いのにも何度もかかりましたよ。

 それでも私はリハビリをキチンとしました。それが私の仕事だと思いましたし、手術をして下さった先生方へのお礼だと思いましたからね。今もここを歩いて、椅子なしで歩けるようになろうとリハビリの先生が立ててくださったメニューをキチンとこなしていますの。だってこれが私の務めですもの」とおっしゃった。

 私は我が身を振り返ってだんだん恥ずかしくなり「これぞ神様のお告げか」と思うほど緊張しておききしました。そのおばあちゃまがおっしゃるには、「Tちゃんは、ご存じ?」あの方もいつも自主トレと云ってきちんと練習しておみえよ?」とのことでした。僕はTちゃんと云う方は知りませんが40歳前後の女性でよく自主トレをしている人は知っています。

  リハビリに関しては断然女性の方が優等生が多いように思えます。僕は文句が多く、絵に描いたような劣等生です。(T)