新しいタワーが300mを越したらしい。
観光客も、急増している、という今朝の朝刊の記事。
昨日も「東京に長く住んでいるけど、押上に初めてきました」
という人がいた。偶然、大学の後輩も珈琲を飲みにきて「ひょっとしたら、東京に
就職するかもしれません」とのこと。ほんまに関西の人、とくに京都の人には
縁が深い。
昨日、珈琲の石臼が完成した。また朝思いついて、SPICE CAFEの
お父さんの工房へチャリンコに、石臼を積んでもっていく。
「この柄を、石臼につけれませんか?」と、提案したら、また気持ちよく
「難しいけど、おもしろいね」ということになった。
天真庵の二階には、寒山拾得(かんざん・じゅっとく)の絵が飾られている。いうまでもなく、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身だ。その絵を描いたのが、四国の南條観山画伯
だ。彼の家で代々使われていた石臼を蕎麦を打ち始めた記念に、譲りうけた。
二階へあがる階段のところに、墓石でつくったワインセラー(墓石に、穴をあけたもの。)
があり、その上に鎮座している。その代々使われてきた石臼の柄を、今回の珈琲の石臼
に、取り付ける、というのがテーマ。
さっそく、長さや形のバランスを考え、どこにつけるか、ということを説明しながら、
木の匠が、黙々と仕事を始めた。こちらも興味津々と、その作業を追うように、
うしろについてまわる。木造の作業場は寒いので、「どうぞ、ストーブの前で
座ってまっていてください」といわれるけど、いっしょに体を動かさないと、落ち着かない。いろいろな道具を使って、柄に2cm5mm四方の穴が開いた。
そして、「木殺し」という作業。つまり石臼に着いている木を、かなづちでうって、
そこに古い木でできた柄を入れ、そこに水をふくませて、ふたつの木を、頑丈にしめる、
という昔からある手法だ。
鑿(のみ)の頭には、丸い鉄のワッカがはまってあるきえど、それも「木殺し」
でできていることを、匠に教わった。
匠もときどき天真庵で酒を飲まれる。昔から酒飲みのことを「左利き」とか「左党」
とかいう。それは、大工が鑿をもつのが左手、ということから、鑿と飲みを、
かけた洒落からきている。
♪私の私の彼は・・・ひだりきき~
のそれとは、意味が違うけど・・
今日は休み。朝から雪が降っている。
この一週間は、今までの「ほぼブラジル」を、この石臼で
挽いて、力の入れ方、スピード、豆の入れる量などを、調整してきた。
今日は、焙煎をかえて、この石臼にあう「ほぼぶらじる」を
作ってみようと、朝一番に店にいって、焙煎をしてみた。
「道具」を変えると、人生が変わってくる。
茶道・書道・華道・・・道具というのは、道が具わったものだ。匠たちと
それを使う人との心の交流があって、繋がってきた「道」みたいなものだ。
珈琲道というのがあるかないか知らないが、確実に新しい道の出発点にたった、
そんな気がする。今日焙煎した珈琲豆をこの石臼でひいて、久保さんの黄瀬戸の
珈琲かっぷで飲みながら、降りしきる雪を見ながら、喫茶去。
こんな幸せな朝はない。こんな幸せな時間が、静かに優美に広がっていくイメージ
を雪景色の中に見た。 感謝。
観光客も、急増している、という今朝の朝刊の記事。
昨日も「東京に長く住んでいるけど、押上に初めてきました」
という人がいた。偶然、大学の後輩も珈琲を飲みにきて「ひょっとしたら、東京に
就職するかもしれません」とのこと。ほんまに関西の人、とくに京都の人には
縁が深い。
昨日、珈琲の石臼が完成した。また朝思いついて、SPICE CAFEの
お父さんの工房へチャリンコに、石臼を積んでもっていく。
「この柄を、石臼につけれませんか?」と、提案したら、また気持ちよく
「難しいけど、おもしろいね」ということになった。
天真庵の二階には、寒山拾得(かんざん・じゅっとく)の絵が飾られている。いうまでもなく、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身だ。その絵を描いたのが、四国の南條観山画伯
だ。彼の家で代々使われていた石臼を蕎麦を打ち始めた記念に、譲りうけた。
二階へあがる階段のところに、墓石でつくったワインセラー(墓石に、穴をあけたもの。)
があり、その上に鎮座している。その代々使われてきた石臼の柄を、今回の珈琲の石臼
に、取り付ける、というのがテーマ。
さっそく、長さや形のバランスを考え、どこにつけるか、ということを説明しながら、
木の匠が、黙々と仕事を始めた。こちらも興味津々と、その作業を追うように、
うしろについてまわる。木造の作業場は寒いので、「どうぞ、ストーブの前で
座ってまっていてください」といわれるけど、いっしょに体を動かさないと、落ち着かない。いろいろな道具を使って、柄に2cm5mm四方の穴が開いた。
そして、「木殺し」という作業。つまり石臼に着いている木を、かなづちでうって、
そこに古い木でできた柄を入れ、そこに水をふくませて、ふたつの木を、頑丈にしめる、
という昔からある手法だ。
鑿(のみ)の頭には、丸い鉄のワッカがはまってあるきえど、それも「木殺し」
でできていることを、匠に教わった。
匠もときどき天真庵で酒を飲まれる。昔から酒飲みのことを「左利き」とか「左党」
とかいう。それは、大工が鑿をもつのが左手、ということから、鑿と飲みを、
かけた洒落からきている。
♪私の私の彼は・・・ひだりきき~
のそれとは、意味が違うけど・・
今日は休み。朝から雪が降っている。
この一週間は、今までの「ほぼブラジル」を、この石臼で
挽いて、力の入れ方、スピード、豆の入れる量などを、調整してきた。
今日は、焙煎をかえて、この石臼にあう「ほぼぶらじる」を
作ってみようと、朝一番に店にいって、焙煎をしてみた。
「道具」を変えると、人生が変わってくる。
茶道・書道・華道・・・道具というのは、道が具わったものだ。匠たちと
それを使う人との心の交流があって、繋がってきた「道」みたいなものだ。
珈琲道というのがあるかないか知らないが、確実に新しい道の出発点にたった、
そんな気がする。今日焙煎した珈琲豆をこの石臼でひいて、久保さんの黄瀬戸の
珈琲かっぷで飲みながら、降りしきる雪を見ながら、喫茶去。
こんな幸せな朝はない。こんな幸せな時間が、静かに優美に広がっていくイメージ
を雪景色の中に見た。 感謝。