晴れたら野山に出かけよう!

おいしい空気をいっぱい吸って 愛しい花や小鳥に会いに出かけよう

懐かしい日々 立山・剱岳の思い出

2015-12-07 12:38:09 | 山の話

思い出話をもうすこし

私が初めて 劔岳・立山に行ったのは 22歳の夏だった。そのとき出会ったのが内蔵助山荘でアルバイトをしていた若い青年達だった。私は友人と二人連れだった。その小屋で楽しいひと時を過ごし それから、何回も内蔵助山荘に行くことになった。小屋の親父さん佐伯利雄さんは 立山の麓にあるガイドの村芦峅寺(あしくらじ)の人で熊打ちの名人だった。お尻にはいつもカモシカの皮をぶら下げておられた。 立山にある山小屋の経営者は 芦峅の人が多く 立山信仰で麓から立山に案内した芦峅ガイドと呼ばれた。ネットに五十嶋一晃氏の書かれた文献「芦峅ガイドの系譜」がある もちろん ケーブルもバスもない時代の話である。 第1次南極観測隊のメンバーに芦峅寺から4名、越冬隊には佐伯富男氏が選ばれて活躍された。芦峅寺の住民1000人のうち2/3は佐伯姓、1/3は志鷹姓で占められているそうだ。だから 南極観測隊に参加した芦峅寺の5人はみな佐伯さんである。そんな立山ガイドの中でも「剱の文蔵」と呼ばれる人がいた。 剱沢小屋の親父さんで 私の知っている文蔵さんは 小屋の周りで腕を組んで登山者を見守るようにぶらぶらしておられた。

ある年の秋 私たちは室堂に着くなり近くにあった「山岳救助隊」の詰所に寄ったら、入口に大きな板が立てかけられ その板にその前日仕留めたツキノワグマの毛皮が貼り付けにされて干してあった。 それが2つあった。中では内蔵助山荘の志鷹三義氏 佐伯文蔵氏 警備隊長の神保氏が 迎えてくださった。 中に入ると 部屋の中にはロープが張られ そのロープには真っ黒な「熊の胆」が二つ、ひもでぶら下げられていた。(熊の胆は 1g1万円という高価なものである) そして 部屋の真ん中の大鍋で「熊鍋」がぐつぐつ煮えているところだった。 もちろん 熊鍋をごちそうになって その晩はそこに泊めてもらった。 

左 佐伯文蔵氏  右 志鷹三義氏

志鷹三義さんとは 早朝の人気のない上高地でばったり会ったこともあった。あれは 穂高から槍へ縦走せんと 上高地についたばかりのことだった。志鷹氏は長靴姿で 長野県へ視察に来ておられたとのことだったが その偶然にびっくりした。

また あるとき 女性3人で有峰湖畔の折立から 太郎兵衛平に向かった。リュックには 簡単な毛バリの付いた竹の釣り竿、わらじ、ザイルをくくりつけていた。すれ違う人は 若い娘が釣竿を背中に山に向かうのをいぶかしがったが 私たちは意気揚々だった。翌日 薬師沢から黒部上の廊下をさかのぼって行った。水の流れは速く 膝上まで水につかりながら 3人でしっかりロープにつかまって 右岸、左岸と渡渉しながら赤木沢まで行った。釣りなどほとんどしたことがない私たちだった。ガイドブックでは イワナは警戒心が強いので 必ず川下からそーっと行って針を投げ入れるようにと書いてあったが 深いトロには イワナがうじゃうじゃ見える。1時間で10匹ばかり釣り上げ 薬師沢小屋付近までもどり 川原に居合わせた東京の青年と一緒に火をおこしイワナを塩焼きにして食べた。小屋に行くと知り合いの立山ガイドがいて イワナの骨酒までごちそうになって イワナ尽くしの山旅だった。

 

いろいろと楽しい思い出はいっぱいある。 小学4年と1年の子供を連れて 剱岳を目指した。 カニのたてばいの岩場に打たれた鉄のくさびの間隔が大きくて 6歳の子供にとっては 頭上のボルトにぶら下がるようにしながら 上へ上へと登って行った。 母親に連れられて 小学1年生で剣岳を極めたのは記録的なことだったかもしれない。帰りが遅くなって 小屋の人を心配させたものだ。 思えば 無謀なことばかりしてきたように思う。 お世話になった人々は 今は皆亡くなられてしまったが しかし なんと人との繋がりの深い のんびりとした山旅だったことだろう。

 

 

 もう山登りはできないが 心に山があるというのは幸せである。