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阪神・淡路大震災の記憶

2014-01-17 15:17:30 | 思うこと

19年前の今日( 1995年1月17日)am5:47 まだ夜明け前の暗闇の中で 阪神・淡路大震災が起こった

あの時 私はまだ寝床の中にいた。

突然の大きな揺れに身を固くしたが すぐに収まるだろうと思ったのになかなか収まらなかった。やっと収まって階下に降りて行ったら 長男がリビングに居て おおきな家具が倒れてこないように 必死で家具を抑えていた。台所は 食器棚の観音開きのところは、中からガラスや陶磁器の食器が床に落ちて 足元は壊れた破片が散乱していた。ラジオでは 震源地が神戸の灘区あたりだと告げ 御影に住む叔父一家のことが懸念された。その日のことは あまり詳しくは覚えていないが テレビでは 神戸の街で次々と火災が発生して 亡くなった人の数を告げていたが 見る見るうちにその数がどんどん増えていった。阪神高速道路が横倒しになっている映像が映し出されその震災のひどさが如実に感じられた。御影の叔父さんと連絡がついたのはいつだったか覚えていないが 東灘区の激震地にあったのに 一家の人々にいのちは別状なかったことが分かったのはほっとした。しかし ライフラインが途絶えて,被災地の人々の生活は 困窮を極めた。翌日も 翌日も 市街地では火災が発生し ことごとく 建物がぺしゃんこになって 多くの人々がその下敷きになっているのに 道路が寸断し 消防車も通れず、生きているのに火災が迫り 助かった家族の必死の救出もかなわず 火災に飲まれていった人々のことが報道されていた。寒空の中にほおりだされ 水も食料もなく トイレさえ使えず 屋外で震える人々。それが どんなに恐ろしいものだったか、被災した人々は どんなにつらく恐ろしい体験をされたことか。

電車の走らないレールの上を あちこちで大きな口を開けた道路を   何十キロも歩いてひたすら被災地に支援物資を運ぶ人々。私たちも 幹線道路は救助する車は通れるが 一般車はまともにたどり着ける道路もなく まわりまわってやっと神戸にたどり着いて 叔父の家族を見た時のことを思い出す。街中 ぺしゃんこに壊れた建物が道路をふさぎ 行き先々で行く手を阻まれて立ち往生したことを思い出す。

2011.3.11 東日本大震災は お昼のことだったが テレビのニュースで知ったあの津波の恐ろしさには 絶句するばかりだった。海から街の路地に向かって 建物も車も人も 何もかも飲み込みながら押し寄せてくる津波の恐ろしさに 世の中にこんな恐ろしいことがあるのか 目を疑るが現実だった。こちらの被災は あの恐ろしい神戸の大震災を なおはるかに上回った。

あれから19年たった今 御影の叔母たちは 今は何もなかったかのようにふるまっていてくれるが 心の中はどんなに恐ろしい記憶が今も疼いていることだろう。神戸の街は 外目には いつもおしゃれで 震災の傷跡は目につかない。しかし 自然災害の恐怖が現実に起こり その災害に飲まれて 今も苦しみの中にある多くの人々。家族を失って 今もそのつらさから抜け出せられない多くの人々、痛みに打ちひしがれている人々のことを 忘れてはいけない。あの恐ろしい出来事を決して風化させてはならない。

19年目の今日 テレビで あれからのつらい日々を映し出している。せめて その人たちのこころに思いをはせて その苦しみに寄り添って  そのつらさを分かち合いたい。

 


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1 コメント

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Unknown (もも)
2014-01-17 21:24:33
ついこの間のように、思いますが、もう19年も経つのですね。
神戸には、娘婿の実家があるから、すぐに電話すると
通じて無事とのことで一安心でした。
その後電話は普通になり、娘たちは、ずいぶん心配したようでした。
平和のありがたさがつくづく思い知らされます。
大きな災害のないことを、祈りつつ。
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