プロレスラー三沢光晴がリング上で死んでから、4週間ほどになります。
私は、三沢光晴としての試合はほとんど見てません。2代目タイガーマスクとしてデビューした頃、一部映像で見た程度です。それでも、試合中に死亡した時(実際にはリング上で意識を失ってから)の映像が流された時は、相当なショックでした。
生前の三沢選手については、スポーツ紙や格闘技雑誌で知っていました。というより、私は一時期、それなりにプロレスファンでした。ジャイアント馬場、アントニオ猪木、初代タイガーマスクと、私のプロレスファン歴は、そのあたりまでで、その後はK-1とか、総合格闘技のほうに興味が移ってしまいました。
よく、プロレスは「八百長」だとか「ただのショー」だとか言われ続けていました。私はファンとしてプロレスを観戦している頃からそういう言葉に強い反感を抱いていました。「八百長やショーで、あれだけの緊張感ある試合が見せられるか」と、いつも思っていたのです。
そのうち、仕事で帰宅が遅くなると夜8時のプロレス中継を見なくなるようになり、テレビの放映も打ち切られるようになりました。この頃からが、三沢選手の全盛期と重なり、彼の試合を映像で見ることなくきていました。また、K-1や総合格闘技の人気が盛り上がり、自然、そちらに関心が移っていったというわけです。
総合格闘技を初めて見たとき、その試合展開があまりにプロレスと比べて違うのに戸惑いました。試合の流れが硬直していて、プロレスのように派手に流れていかないのです。一つの投げ技にしても、プロレスでは、鮮やかに投げ、投げられ、いわゆる「きれい」なのです。それに反して、格闘技のほうは、かったるい。もたもたしている。投げるほうが投げようとすると、投げられるほうは必死に抵抗して、そこで何分ももみ合い、膠着する。それが、最初はすごいストレスでした。
しかし、考えるに、オリンピックの柔道でも、互いに相手を投げよう、相手に投げられまいと、真剣に組み合っていれば、そうそう鮮やかに技が決まるものではありません(だから、鮮やかに決まると喝采なのです)。そういう風に見ていくうちに、総合格闘技の一見もたついた「かったるさ」が、本当の真剣勝負に見え、非常な迫力と緊張感を覚えるようになり、はまっていきました。
要するに、この時点で、「なあんだ、プロレスなんて、しょせん、単なるショーじゃないか」と世間が言うように私自身も思えてきて、ほとんど関心がなくなってしまったのです。しかし、総合格闘技を見ているうちに、今度は逆にプロレスの見方が変わってきたのです(見る眼が肥えてきたのか)。確かにプロレスは「ショー」です。それも、真剣勝負のショーなのです。相手が技を掛けて来れば、真剣勝負で受けて立つ。肉体と知能で技を受け、技を仕掛け、かつ試合を組み立てていかなければ、「ショー」が成り立たないのです。その主導権を握れるのが勝者であり、ヒーローになれるのです。
アントニオ猪木は、プロレスラーとして、肉体も知能も最高レベルにいたレスラーだったと言われます。つまり、相手の技を引き出し、相手の見せ所を十分出しながらそれをすべて受け止めて、最後に「最高のショー」として成立するようにトドメをさす。時代劇のように、一度は悪役の凄みを引き出しておいて、主役が窮地に陥りながらも、最後は主役が斬り倒す。ここに、観客は歓喜するのです。
これは、八百長というのではなく、格上のレスラーが相手の技、相手が組み立てている試合の流れを凌駕しなければ成り立たない高度な「ショー」なのです。真剣勝負で勝てないレスラーは、いつまでも自分の「ショー」を実現できないのです。逆に、ただ強いだけでは、「ショー」が成り立たない。
三沢選手も、この「ショー」の組み立てが抜群だったと言われます。相手との真剣な技の掛け合い、受け合い、見せ合いがあってこそ、プロレスは成り立つのです。今回の事故は、三沢選手の体調が思わしくなかったところ、受身の達人である三沢選手が受身を取りそこなって事故に至ったと言われています。すでに、プロレス団体ノアの社長業に専念すべく、今年中に引退を考えていたという、三沢光晴選手。現役最高峰と言われる選手が、その試合中に亡くなるというのは、本当に痛ましい限りです。
力道山、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、橋本真也など、現役中(もしくは引退後まもなく)に亡くなったレスラーがいますが、いずれも怪我や病気、あるいは暴行など、リングの外で亡くなりました。リングの上で死亡した名もなきレスラーもいるようですが、現役最高峰にいるレスラーがまさに技を掛けられて死亡するということは前代未聞でしょう。
私としては、天才といわれる三沢選手の試合を一試合でもじっくり見ておきたかったというのが正直なところです。格闘家はリングの上で死ねれば本望と言いますが、本当でしょうか。アントニオ猪木のように、絶頂を下り気味になった時、それを悟って余力を残しながら、ファンの前でリングを去るのが、王者の最高の去り際のように思えます。
三沢選手は、そういう意味で残念だったのではないでしょうか。王者の去り方にはそれぞれドラマがあります。冥福を祈ります。
私は、三沢光晴としての試合はほとんど見てません。2代目タイガーマスクとしてデビューした頃、一部映像で見た程度です。それでも、試合中に死亡した時(実際にはリング上で意識を失ってから)の映像が流された時は、相当なショックでした。
生前の三沢選手については、スポーツ紙や格闘技雑誌で知っていました。というより、私は一時期、それなりにプロレスファンでした。ジャイアント馬場、アントニオ猪木、初代タイガーマスクと、私のプロレスファン歴は、そのあたりまでで、その後はK-1とか、総合格闘技のほうに興味が移ってしまいました。
よく、プロレスは「八百長」だとか「ただのショー」だとか言われ続けていました。私はファンとしてプロレスを観戦している頃からそういう言葉に強い反感を抱いていました。「八百長やショーで、あれだけの緊張感ある試合が見せられるか」と、いつも思っていたのです。
そのうち、仕事で帰宅が遅くなると夜8時のプロレス中継を見なくなるようになり、テレビの放映も打ち切られるようになりました。この頃からが、三沢選手の全盛期と重なり、彼の試合を映像で見ることなくきていました。また、K-1や総合格闘技の人気が盛り上がり、自然、そちらに関心が移っていったというわけです。
総合格闘技を初めて見たとき、その試合展開があまりにプロレスと比べて違うのに戸惑いました。試合の流れが硬直していて、プロレスのように派手に流れていかないのです。一つの投げ技にしても、プロレスでは、鮮やかに投げ、投げられ、いわゆる「きれい」なのです。それに反して、格闘技のほうは、かったるい。もたもたしている。投げるほうが投げようとすると、投げられるほうは必死に抵抗して、そこで何分ももみ合い、膠着する。それが、最初はすごいストレスでした。
しかし、考えるに、オリンピックの柔道でも、互いに相手を投げよう、相手に投げられまいと、真剣に組み合っていれば、そうそう鮮やかに技が決まるものではありません(だから、鮮やかに決まると喝采なのです)。そういう風に見ていくうちに、総合格闘技の一見もたついた「かったるさ」が、本当の真剣勝負に見え、非常な迫力と緊張感を覚えるようになり、はまっていきました。
要するに、この時点で、「なあんだ、プロレスなんて、しょせん、単なるショーじゃないか」と世間が言うように私自身も思えてきて、ほとんど関心がなくなってしまったのです。しかし、総合格闘技を見ているうちに、今度は逆にプロレスの見方が変わってきたのです(見る眼が肥えてきたのか)。確かにプロレスは「ショー」です。それも、真剣勝負のショーなのです。相手が技を掛けて来れば、真剣勝負で受けて立つ。肉体と知能で技を受け、技を仕掛け、かつ試合を組み立てていかなければ、「ショー」が成り立たないのです。その主導権を握れるのが勝者であり、ヒーローになれるのです。
アントニオ猪木は、プロレスラーとして、肉体も知能も最高レベルにいたレスラーだったと言われます。つまり、相手の技を引き出し、相手の見せ所を十分出しながらそれをすべて受け止めて、最後に「最高のショー」として成立するようにトドメをさす。時代劇のように、一度は悪役の凄みを引き出しておいて、主役が窮地に陥りながらも、最後は主役が斬り倒す。ここに、観客は歓喜するのです。
これは、八百長というのではなく、格上のレスラーが相手の技、相手が組み立てている試合の流れを凌駕しなければ成り立たない高度な「ショー」なのです。真剣勝負で勝てないレスラーは、いつまでも自分の「ショー」を実現できないのです。逆に、ただ強いだけでは、「ショー」が成り立たない。
三沢選手も、この「ショー」の組み立てが抜群だったと言われます。相手との真剣な技の掛け合い、受け合い、見せ合いがあってこそ、プロレスは成り立つのです。今回の事故は、三沢選手の体調が思わしくなかったところ、受身の達人である三沢選手が受身を取りそこなって事故に至ったと言われています。すでに、プロレス団体ノアの社長業に専念すべく、今年中に引退を考えていたという、三沢光晴選手。現役最高峰と言われる選手が、その試合中に亡くなるというのは、本当に痛ましい限りです。
力道山、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、橋本真也など、現役中(もしくは引退後まもなく)に亡くなったレスラーがいますが、いずれも怪我や病気、あるいは暴行など、リングの外で亡くなりました。リングの上で死亡した名もなきレスラーもいるようですが、現役最高峰にいるレスラーがまさに技を掛けられて死亡するということは前代未聞でしょう。
私としては、天才といわれる三沢選手の試合を一試合でもじっくり見ておきたかったというのが正直なところです。格闘家はリングの上で死ねれば本望と言いますが、本当でしょうか。アントニオ猪木のように、絶頂を下り気味になった時、それを悟って余力を残しながら、ファンの前でリングを去るのが、王者の最高の去り際のように思えます。
三沢選手は、そういう意味で残念だったのではないでしょうか。王者の去り方にはそれぞれドラマがあります。冥福を祈ります。
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