『鏡獅子』
休日のウォーキングを兼ねた散策コースに平櫛田中(ひらくし でんちゅう)彫刻美術館があります。季節の催しの案内を見ながら、たまに入ってみたりします。地元の市にある小さな美術館、というより平櫛田中の自宅を改造したものなので、たまにお宅にお邪魔するという感じなのです(入館料も300円なので、気軽に入れます)。
玄関(入口)脇には、巨大なクスノキの幹がそのままの形で立てて置いてあります(一見、土から生えているように見えますが、置いてあるのです)。田中さんが100歳の時になお20年分彫るために取寄せた原木で、直径2メートルほどもあります。もう亡くなってしまいましたが、あの小さな身体で、この幹をそぎ落としていくのかと、入るたびに圧倒されてしまいます。
先月も「仏像インスピレーション」というものをやっていました。館内は小さいので、展示数は限られてしまいます。おなじみの円空や木喰(もくじき)、もちろん田中さんとその他の彫刻家の仏像作品がありました。「仏像インスピレーション」というからには、仏像がテーマなのですが、せいぜい数十センチの像がメインです。私としてはちょっと物足りなく思いつつも、都会はずれの個人邸を改造した美術館は、品よく丁寧に心のこもった手料理をいただくようで、いつもながら「ほっ」、とする時間と空間でした。
田中さんの代表作で最も有名なのは『鏡獅子』で、2メートルほどの大きなほうは国立劇場に展示されているので、ご覧になった方もいるでしょう。じつは、小さなほう(60センチ弱)の「鏡獅子」がちゃんとあり、こちらは当美術館に常設となっているのです。よくよく見ると、まったく本物のようで、木に着色した鮮やかさが、なんとも言えないのです。
『転生』
ところで、私がいつも入って眼をとらわれるのは、じつはもう一つあるのです。入館してすぐ眼の前にあるのが『転生』です。これも2メートル以上もあるブロンズ像で、思わず見上げてしまいます。筋骨たくましい鬼が、上から見下ろして舌を出しているのです。それは、何かを吐き出しているようです。よく見ると、舌ではなく、人間が頭から先にべろー、と吐き出されているのです。この鬼も、昔話に出てくる地獄の下級界の鬼などではなく、仏様(如来)の脇にいる守護神に近い、上級界の風格ある鬼です(説明によると、仏教的な守護神や明王とは関係ないそうですが)。
最初は、口から出てくるのが合掌した菩薩像に見えたので、転生というからには明王様の胎内から人間が菩薩に生まれ変わる高尚な仏教の比喩かと思いました。そうではなくて人間で、それもひょんこりととがった頭を先に両腕をぴしゃりと身体に付けて、背中向けにべろんと吐き出されるさまは、なんともまあ間が抜けた、滑稽というより、情けないというより、おもちゃっぽいというか、どうしようもない虫けらみたいです。
鬼にしても、「人間なんざあ、まずくて食えねえ」、というところでしょうか。どうもこの像の前に来ると私は、自分なんか、食えねえ人間なんだろうなあ、としみじみ思ってしまう次第です。あなたも、いえいえ、世にお偉いと言われる方も、一度この前に来られたらどうでしょうか。人の上に立つ人ほど、この人間というものが、おもしろおかしく、ちゃちで、「やがて哀しき」ものだとわかるでしょう。より上の界へ生まれ変わってみたい・・・、と。
静かな雰囲気で館内を回りながら、アトリエ、寝室や居間、茶室や庭園などをふらりふらり進んでいると、まるで自分の居室のように思え、ぼんやりと庭を見ながら想いに耽ってしまうのです。きっと田中さんも、彫刻の合間に、こうして瞑想に心を休めていたことでしょうね。老いたご母堂の胸像を彫っている写真がアトリエにありました。自らが老いながら、母の像を彫る姿にしみじみ見入ってしまいます。
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