(明月院 枯山水庭園)
明月院は紫陽花。
紫陽花が過ぎても、明月院は人が多かった。
あじさい寺に行く経路はいくつかあって、多摩方面から来る、新宿経路で回る、東京駅まで出て横須賀線に乗って来る、という路線。毎回違っても、大船駅には着く。大船から鎌倉に向かって駅を離れて行くにつれ、右手に、電車の動きに添ってゆっくり、ゆっくり、大きな観音様がこちらに振り向いてくれる。窓から見るのが、いつも楽しみとなる。「あ、観音様が・・・」と誰かが言う。白い、優しいお顔が自分を見返ってくれる。慈しむ母であり、まだ見ぬ恋人であり、いま寄り添うその人の顔であったりする。
鶴岡八幡、大仏様や長谷の観音様は定番だが、たまにほかへ寄っったりする。建長寺を出て歩いて行くと、明月院がある。明月院へ行く道も初めてではない。歩きがてら行く。茶店や、せせらぐ川、置き土産屋に小洒落なギャラリー。京都や奈良と違い、鎌倉の寺々は、ちょっとこじんまりした古都で、すべて歩いて行けない所はない。
この寺も、ゆっくり見るにはいい。紫陽花の咲き頃は、もっと観光客が多いのだろう。外国人も目立ち、特にアジアの人の言葉もよく聞かれる(顔だけでは分からないが、言葉で韓国や台湾などの人と分かる)。
前にも来たはずなのに、あんまり覚えていない。枯山水庭園は、竜安寺(京都)のものにはなかなか及ばないが、小ぶりでも、本堂の前に人を迎えるように、それが務めかのように、堂々と庭が見られている。石(山と自然)と砂(海)が落ち着いた世界を形づくっている。
その前にある本堂。靴を脱いで上がって、そそくさと畳を擦って敷居を超え、池と芝の見える庭園に向かって欄干に腰かけてみた。少し前ならハナショウブが池の向こうに見えるのだろう。今は花がない時期。コスモスが見える程度だ。少し休んで、畳の間に戻り、今いた場所を振り返る。と、そこには別の世界があった――。
(明月院 本堂)
ああ、これが禅の世界だな、と思った。先ほどまで、なにと感じられなかった景色が、別の世界に変わってしまう。明かりを外から採り入れる代わりに、こちらの間(ま)は光を閉じ込め、ただ中央に大きな円月をくりぬいている。そこから外の世界を取り込む。これだけで、世界はまったく変わってしまう。この円月の隈取りをただ通りすぎて外の景色に見とれていては、そこに感じるものはない。
平凡な世界。そこに入り浸っていては、その場所になじむだけである。ひとつ下がって、境界を変えて見るだけで、「こちら」と「あちら」の世界観は変わる。自然は、円月の境界に閉じられたようで、じつはその宇宙は広がっていく――。
円月の明かり取りは、満月であり、ウサギがよく似合う。
(明月院のシンボルはウサギ。9月下旬 北鎌倉にて)
明月院は紫陽花。
紫陽花が過ぎても、明月院は人が多かった。
あじさい寺に行く経路はいくつかあって、多摩方面から来る、新宿経路で回る、東京駅まで出て横須賀線に乗って来る、という路線。毎回違っても、大船駅には着く。大船から鎌倉に向かって駅を離れて行くにつれ、右手に、電車の動きに添ってゆっくり、ゆっくり、大きな観音様がこちらに振り向いてくれる。窓から見るのが、いつも楽しみとなる。「あ、観音様が・・・」と誰かが言う。白い、優しいお顔が自分を見返ってくれる。慈しむ母であり、まだ見ぬ恋人であり、いま寄り添うその人の顔であったりする。
鶴岡八幡、大仏様や長谷の観音様は定番だが、たまにほかへ寄っったりする。建長寺を出て歩いて行くと、明月院がある。明月院へ行く道も初めてではない。歩きがてら行く。茶店や、せせらぐ川、置き土産屋に小洒落なギャラリー。京都や奈良と違い、鎌倉の寺々は、ちょっとこじんまりした古都で、すべて歩いて行けない所はない。
この寺も、ゆっくり見るにはいい。紫陽花の咲き頃は、もっと観光客が多いのだろう。外国人も目立ち、特にアジアの人の言葉もよく聞かれる(顔だけでは分からないが、言葉で韓国や台湾などの人と分かる)。
前にも来たはずなのに、あんまり覚えていない。枯山水庭園は、竜安寺(京都)のものにはなかなか及ばないが、小ぶりでも、本堂の前に人を迎えるように、それが務めかのように、堂々と庭が見られている。石(山と自然)と砂(海)が落ち着いた世界を形づくっている。
その前にある本堂。靴を脱いで上がって、そそくさと畳を擦って敷居を超え、池と芝の見える庭園に向かって欄干に腰かけてみた。少し前ならハナショウブが池の向こうに見えるのだろう。今は花がない時期。コスモスが見える程度だ。少し休んで、畳の間に戻り、今いた場所を振り返る。と、そこには別の世界があった――。
(明月院 本堂)
ああ、これが禅の世界だな、と思った。先ほどまで、なにと感じられなかった景色が、別の世界に変わってしまう。明かりを外から採り入れる代わりに、こちらの間(ま)は光を閉じ込め、ただ中央に大きな円月をくりぬいている。そこから外の世界を取り込む。これだけで、世界はまったく変わってしまう。この円月の隈取りをただ通りすぎて外の景色に見とれていては、そこに感じるものはない。
平凡な世界。そこに入り浸っていては、その場所になじむだけである。ひとつ下がって、境界を変えて見るだけで、「こちら」と「あちら」の世界観は変わる。自然は、円月の境界に閉じられたようで、じつはその宇宙は広がっていく――。
円月の明かり取りは、満月であり、ウサギがよく似合う。
(明月院のシンボルはウサギ。9月下旬 北鎌倉にて)
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