フォークナーの作品は難解だと言われます。学生当時もよくわからなかったのですが、今回『アブサロム、アブサロム!』を読んでも、なかなか頭に入ってきませんでした。ストーリーは複雑ではないのですが、プロット(小説の組み立て)が幾重にも折り重なっていて、分かりにくいのです。
もっとも、20世紀小説はストーリーよりもプロットや方法を重視しています。19世紀小説との大きな違いは、時間の扱いです。19世紀小説は、暦年的に時間が経過していきます。20世紀小説は、時間を心理や記憶や語りで圧縮したり、膨張させたりしています。プルーストは、時間を記憶の中で膨張させたり、深化させたり、あるいは循環させたりして、あの長大な小説『失われた時を求めて』を書きました(なんと、私はこの作品を2~3年がかりで読んでしまいました。1巻が文庫で平均800ページで10巻分の長さ!)。
『アブサロム、アブサロム!』も、人物・事件について、時間を縦横に行き来し、何人かの「語り」役の登場人物に語らせています。文章(高橋正雄訳)は、翻訳をあまり意識させない日本語で書かれています。文体としては、私の好きなタイプの書き方ですが、作品の中で時間層が幾層にも重なっていて、なかなか集中して小説の世界に入りきれませんでした。いろいろとビジネス上のことが頭に残っている時に、こうした濃密な小説はちょっとかったるいのが正直で、ほんとうは図書館にでも閉じこもってその世界に浸りきるのが一番いいのでしょう。
そんなにかったるいのに、なんで読むのかって思うでしょう。一気に読みきれる軽いものも読んでみたいとは思いますが、自分が書き手の立場に立って読むとき、こういう小説は一種、教科書みたいなものなのです。フォークナーの書くものには、小説の方法論がびっしり詰まっている作品が多いのです。モームが「下手な通俗小説を読むより、プルーストを読んで退屈していたほうがよほどましだ」ということを書いてましたが、同じようなことがフォークナーにも言えると思います。
確かにいい作品です。続けて2度読むと、味わいがぐーっとしみ込んでくるでしょう。私が評論家なら、すぐまた読み返すでしょう。でも、やはりもう少し読みやすくしてくれたら、通勤電車の中でももっと夢中になれるでしょうに。通勤中は、仕事の残滓がいつも頭にあるので、文学は週末に限ることにしました。
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