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都心から、ちょっと離れた郊外の小さめの美術館にひょっこり入ると、思わぬうれしい出会いがあったりします。
御岳渓谷には、川口玉堂という日本画大家の美術館があるし、その対岸には少し小さめの御岳美術館があります。御岳美術館には棟方志功の「波乗菩薩の柵」や山下清の「長岡の花火」、高村光太郎の「手」の彫刻などがあり、人気(ひとけ)も少なく目の前でゆっくり、じっくり見ることができます(展示品は時期により変わります)。
紅葉の自然の中で、散策の途中にこうした小さな美術館に入れるのは、これはまた上野の大きな美術館と違った味わいがあって、楽しいものです。
たった一枚でも、間近で棟方志功や山下清の実物の絵を見ると、思わず足が止まってしまいます。絵にしろ、彫刻にしろ、機会があればできるだけ本物を見るように心がけています。出版された絵画集や写真で見るのもいいですが、やはり絵の具の刷け具合や、彫刻なら彫る刀の刃の入れ具合、貼り絵なら紙のちぎりや貼り具合など、画家が生の手で触った感覚がないと、息遣いが伝わってこないのです。さあっと、ひと刷けされた跡を見ると、画家がまさにそのように、今しがた筆を刷いた感覚が伝わってきます。
山下清は、生の目で見た景色がそのまま「写真」となっていつまでも脳に貼り付いていて、放浪から帰ってから、それを「見ながら」絵を貼っていったというのは有名です。画家などには、このように一度見た映像が写真となってそのまま脳裏にずっと残っている(貼り付いている)特異の才能を持つ人が多いようです。専門的な用語ではなんと言うか分かりませんが、音楽家の「絶対音感」に近い「絶対画感」とでも言うのでしょうか。山下清の絵を見ていると、そういう特質が異常に発達していたのが分かります。彼の絵が現世を超えた写真のように見えてきます。
小説家にもこれに近い「絶対文感」というべきものがあるように思います(これも専門用語があるかもしれません)。どういうものかというと、潜在脳の中にしまわれていた光景が、ペンを進めていくうちに写真や絵画、時には曲となって現前し、作家はそれを見ながら、あるいは聴きながら文章で再現していくのです(こういう経験は私にもあります)。ですから、芸術家というものは、あとで「復元」できるようにできるだけ感動できるものを潜在意識に記憶させておく(貼り付けておく)ことがよいのでしょう。
先日、場所はこの美術館から少し離れた渓谷の休憩所のギャラリーでしたが、ある女性の画家に出会いました。向原常美(むこうはら つねみ)さんという墨彩画家です。日本神話や縄文の文様、富士など自然を墨彩中心に描いています。神話や自然など、現実界を超えた世界を柔らかく暖かみのある抱擁の線で表現しています。この渓谷の近くにある酒造場のただずまいを描いた風景ですら、暖かで繊細な抱擁感を感じてしまうのです。
この女性画家のことを、私はぜんぜん知りませんでした。大きな屏風絵の『富士シンフォニー』は神話時代に存在した富士を想像させます。「神話時代の富士」というのがどういうものかと問われると、答えようがありませんが、この画家がいくつか描いている日本神話の背景に描かれるべき富士山と答えておきたいと思います。
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この「富士シンフォニー」は、私はどこかで見た記憶があります。すぐにピンと来ました。久保田一竹(辻が花染めの芸術家)が織物に描いた富士山に似ています。この二人の芸術家の富士を捉える鷹揚な感覚がどこか共通しているのでしょうか。それは神話につながる潜在意識に、ずっと張り付いているものなのでしょうか。
(※久保田一竹は、世界の中で日本が誇れる芸術家で、私はその作品に非常に大きな衝撃を受けました。いつかまた詳細に書いてみたいと思います。)
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