コロンビアのノーベル賞作家、ガルシア・マルケス氏が亡くなりました。じつは、このブログの記念すべき(?)第1回のコラムがマルケス氏の『百年の孤独』についてでした(「小説とライフプランニング『百年の孤独』」)。
20世紀小説は、ジョイス『ユリシーズ』、プルースト『失われた時を求めて』によって頂点を極めたと言われ、その後の小説は、いかにこの2人の偉業作品を毀し変容させていくかが生き延びる道だとされました。
考えてみれば、同じようなことが19世紀小説でも言われました。トルストイ、ドストエフスキーらによって小説は完成したと言われ、その後の小説はいかにこれらの小説を破壊させながら発展させていくかということでした。そこに現れたのがジョイス、プルーストだったのです。
もう、小説の方法も出つくした、あとは衰退をたどるのが小説の運命と言われた20世紀も後半、突如として仰天すべき小説が出現したのです。それがマルケス氏の『百年の孤独』です。作家や評論家が驚いたこのラテンアメリカ文学は、マジック・リアリズムと言われ、民族的伝承と記憶と現実と呪術的な超時間的感覚で書かれたまったく新しい小説でした。
おそらく、20世紀前半にジョイス、プルーストが出現した時のような「事件」だったのでしょう。日本の作家たちが「すごい、すごい」「読んでみたか」などいろいろ書いているのを読んで、ついに僕も読んだのでした。
決して、読みやすい小説ではありません。ほいほい話が進んで、作品の中にのめり込んで、あっという間に読み終えてしまったという代物ではありません。そんなこと言ったら、『ユリシーズ』や『失われた時を求めて』だって、決して読みやすいとは言えません。まあ、退屈なところもけっこうあって、その退屈さをゆっくり上等に楽しめる贅沢な小説と言えるでしょうか。僕としては、あの長大な2作品を死ぬまでにもう1回読んでみたいと思っていますが・・・・。
話を戻すと、『百年の孤独』は確かにこれまでにない小説です。僕自身、古今東西の小説を読み漁ったというわけではありませんが、この作品の異様さがわかります。異様さと言っても、ミステリーや奇書ではありません。その作風です。だいたい、小説の中の時間が、いったいどれくらい経っているのか進んでいるのか、まったく分からなくなってしまう。
それが1日の出来事なのか、100年、200年の長さの時間なのか。物語の中での実際の時間が短いのか、長いのか。20世紀小説も意識の時間を巧みに描いたものですが、どうもその時間感覚とは違うらしい。なにやら、1人の一生よりとてつも長い時間が作品の中で流れているのですが、それが1人の中で起こっているという錯覚に陥る。そこに伝承と記憶の意識と土地の「場」が絡んでいるようなわけです。
この作品は、新しい世紀の小説宝庫となり、小説は蘇生し、さまざまなラテンアメリカ小説が呼び起こされました。小説の可能性がこれでまた拡がったわけです。アニメ、コミック、ゲームなど優れている作品がおびただしく出てきており、小説は衰退していくのではないかと危惧されてきました。存在価値がなくなればそのまま絶滅するのも仕方ないかと思いますが、どっこい、まだまだ「言葉の魔力」というのは、そう簡単に衰えるわけではないとも思って(願って)います。
『百年の孤独』の次に、何が来るか。
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