フランスの外交官に決まった杉村陽太郎が四谷の料亭に無理やり三船久蔵を引きずり込んだ。
「僕は、東京帝大の柔道教導を辞めざるを得なくなった。」
「フランスへ行かれるそうですね」
杉村の噂はすでに講道館でも知らないものはいなかった。
「三船」は岩手県の久慈で生まれ、秀才と言われた男であったが、仙台で修業をし早稲田大学に学びながら講道館へ入門。
あれよ、あれよと昇段し、明治40年の紅白試合で、4段になり、いずれは、講道館を背負う実力をつけていた。
24歳の時である。
小柄な体格で大男に勝つための鍛錬、鍛錬。
講道館に姿を見せないときは、鉄の下駄を履き、足腰を鍛え,立ち技ではかなわない相手には、徹底した寝技で勝負する。
一徹な性格は、大館中学を訪れる数日前の実家での出来事にも、本領を発揮する。
杉村陽一郎の後を引き継ぎ東京帝大の師範になると、
「三船さんにはうちの大学にも来てもらわんと困る」と言って、明治、早稲田、国学院、赤坂の中学など、われ先と、教導の話が舞い込んだ。
新聞に三船の記事が出るたび、久慈の生家三船の父親は
「武術だけ夢中になりおって、少しは「身を固めることも考えんか」
と、再三、手紙を送った。
何通目かの手紙に、父親は、嘘を書いて送った。
上京以来、仕送りばかり、一度も帰省しない,我が子の顔も見たい。
「お前の嫁が決まった。至急帰れ」
「親が決めた、嫁を放っておくわけにはいかん」
5人の書生に留守中の教導を頼んで、三船は久慈に帰った。
三船が突然、玄関先に現れて、驚いたのは、手紙を書いた父親であった。
まさか「嫁」の一言で、わが息子が田舎へ戻るとは
三船はその晩、「嫁が決まったというから戻ってきたのに、俺は、嫁が決まるまでは、東京には戻らん」
三船の父は、使用人まで繰り出し、本人は、朝早くから知人を充てに、嫁捜しに奔走した。
三船は、盛岡の農学校など近在の中学で教え2週間が過ぎて、秋田の小枝指村の児玉道場に行こうとしていた三船に、母親が、一人の女性を連れて来た。
三船の「お嫁さん」
翌日、大男を投げ飛ばす程の武術家三船も、お嫁さんの実家での挨拶はどんな言葉を言ったか覚えていなかった。
3日後、小枝指の児玉道場で「大田節三」の存在を知った三船は、大館中学迄足を延ばした。
汽車の中で、三船のお嫁さんが、
「大館の長木沢川には、大きな蕗があるそうですね。身の丈もある傘にもなって、風が吹いても、折れないと聞いたことがあります。しなやかなんでしょうね」
三船は、大館中学の柔道部の特別席で、生徒の乱取りを見ていたのは、長木沢川の蕗を見た翌日である。
背筋を伸ばしても、相手に倒されない学生の一人を見て、
「しなやかだ。秋田の蕗だ」3日目のお嫁さんが教えてくれた言葉が頭の中でくるくる回る。
「しなやかな、腰だ」三船はしばらく、その学生から目を離さなかった。
その学生が「太田節三」