パソコン、台風の所為か、暑気あたりの所為か、
乱暴に扱うからか、ブログの画像がサクサクと出ません。
機械は今年初め、買い替えたばかり、
画像が出ないのが私だけなら、修理に出そうかと・・・。
6月27日に投稿いたしました「東向八幡宮」の記事で、
誤りが判りました。
下記の分は、当日に記したものですが、
赤字が誤記と訂正箇所。昨日判明したものです。
榛名山の麓、
箕郷の西明屋の氏子から神社の改装を依頼されたのは、
1783年黒保根、上田沢で正月を過ごしたばかり。
関口文治郎は次男松治郎を連れて、
※松治は、文治郎の子ではない・・文治郎末裔、関口聡氏・談。
西明屋の八幡宮に出向き仕事の打ち合わせをしている。
浅間山に噴火の煙がたち、噴火の焼砂が降り始めたのが7月7日。
箕郷村は農作物が全滅し、荒れ地になってしまった。
翌1784年は八幡宮の建立を中断し、
浅間山の噴火が収まり、落ち着きを取り戻した、
氏子たちは、八幡宮の建立に、15両1分を集め、
再度八幡宮改修に願う。
本殿がの出来上がったのは、1791年。1796年
文治郎60歳。66歳
次男松次郎は、脇障子、戸脇を担当し2両2朱、
文治郎率いる花輪彫刻の、
神梅の鏑木半次郎と花輪の前原与四郎は、
獅子8つ象2つで作料3分。
鏑木半治郎 作料金3分
目貫龍竜と珠輪を彫った水沼の萩原要右衛門に1両2分を、
そして、越後から呼んだ、木挽久右衛門は、
神社の正面、蟇股を彫った功績に、4両1分を渡した。
文治郎ここでは彫らず、棟梁風。
天下の名工と騒がれているのに・・・まったくゥ~!
このころから、文治郎は、彫刻棟梁としての集団をまとめる力は、
多の集団より抜きんでていた。
※誤記に横線をし、赤字は訂正箇所 訂正toyo
勢多郡東村誌、黒保根村誌に依存
西明屋八幡宮、今は東向八幡宮。