江戸初期では、ほとんど寺社彫刻はなく、
伊勢神宮、鹿島神社に見られるように、
白木造りのシンプルな建築が多かった
家光の時代(1623~51年)の代になって、
東照宮の造営に伴い、建築様式が少しずつ変わり、
装飾としての彫刻が、美しく彩色されるようになり、
建物も、和風から唐風へと変わり、重厚な建築様式に、
この波に乗ったのが、
高松佐平治、その弟子たち花輪の彫刻師。
1711年から「廃仏稀釈」の運動で、
彫師の活躍が無くなるまでの160年間。
活躍が際立つのは、石原常八三代。
初代常八の作品は焼失して1ヶ所しかないけれど、
2代目常八は、初代に頭をこずかれ、背中を蹴飛ばされ、
掌の血を雪で拭いて成長し、16歳の時にはいっぱしの彫師になる。
3代目は、2代目のしごきをなんなくこなして、
群馬、箕郷町柏木沢の宿稲荷で貴重な技術を遺してくれた。
江戸の気っぷ、上州花輪の彫師たちは、それを上回り、
弟子も多いが
遊びの金遣いも荒く、いつも金がない。
二代目、あちこち借金を繰り返すのに、
(借金の証文がしっかり残っている)
それでも仕事ができたのは、彫師としての「腕・うで」
邑楽郡板倉町の「雷電神社」
文政2年1818年4月7日。
天保6年1835年、二枚の棟札に記録されているのが、
二代目石原常八主信。
二代目が中心になって彫った神社の、
羽目板と脇障子。最も得意とした龍の彫物。
二代目常八主信、49歳の男盛り。
三代目常八主利、25歳。藍染半纏を粋にこなし、
料理屋の仲居が持つ盆が震えさせるほどのスタイリスト。
写真 2018.8.1 群馬県邑楽郡板倉町