民法要説
第一章 民法の意義
二 民法典の成立
わが国は、明治期において、不平等条約の改正を直接の政治的動機とし、近代国家の形成を目指した。それには、先進国のもっている憲法をはじめとする近代的法典の編纂が必須とされていた。民法典の編纂も当然重要な基本的課題であった。すでに明治三年(一八七〇年)には、太政官に制度取調局が設置され、江藤新平がその長官とし、フランス民法を翻訳し、若干の修正をした上で、民法の編纂に当てようと計画されていた。その後、この民法典の編纂事業は、司法卿の大木喬任によって受け継がれ、明治一二年(一八七九年)には、フランスの法学者ボアソナードに対して、日本民法典の起草が委嘱された。この作業が完成したのは明治二三年(一八九〇年)で、法律として公布された。いわゆる旧民法である(この間、明治一九年に外務省に法律取調委員会が設けられ、明治二〇年にはその事業は司法省に移され、司法大臣山田顕義自ら委員長となって、財産編、財産取得編の大部分、債権担保および証拠編をボアソナードに、人事編と財産取得編の相続にかんする一部分を日本人委員に起草を命じた。要するに、財産法はフランス人ボアソナード、家族法は日本人委員ということである。この民法の編纂は、わが国の近代化、民法の特異性を知る上で、極めて重要である。財産法は近代資本主義を導入しながら、家族法には封建法理が温存された)。この旧民法は、明治二六年(一八九三年)一月一日から施行されることとされていたが、その直前になって強力な反対論(実施延期論)が起こった。旧民法を予定どおり実施すべしとする断行論との間に、民法上特筆される「法典論争」が展開された。そして、結局この論争は、明治二五年(一八九二年)の帝国議会にもちこまれ、施行の延期という名のもとに永久に葬り去られてしまった。この法典論争では、国粋主義者からの反対論が強力で、時の東京帝国大学教授の穂積八束の「民法出デテ忠孝亡ブ」の論文は象徴的であった。現代では到底信じられない論議であった。
明治二六年に改めて法典調査会が設置され、民法学の先駆者の穂積陳重、富井政章、梅謙二郎の三氏を起草委員に任命した。この起草委員会は、当時発表されていたドイツ民法第一章案を参考として案を作成した(ドイツでは、この草案は学者、実務家の批判を経て幾度も書き改められた末に法典となった)。そして、明治二十九年に民法典のうちの前三編(財産法の部分)が法律第八五号として公布された。親族・相続編については日本独自のものが必要との理由から、別の委員会において審議され、法律も別の法律として、同三一年に法律第九号として公布された(家族法の制定はあくまでも近代法とは別の家父長的視点であった)。そして、この二つの立法が一つの法典として明治三一年七月一六日から施行された。
こうして、明治三一年の制定の現行民法は、財産法と家族法では全く法原理を異にする跛行的な民法典として成立した。
三 民法典の改正・特別法の制定
1 民法典の改正 民法典において特筆されるべき改正は、敗戦後の占領国の主導のもとに、個人の尊厳、両性平等の確立を目指し、昭和二二年民法の改正がなされたことである。①昭和二二年の改正の主点は、総則では、一条・一条の二の民法の基本原理の導入制定、妻の行為無能力の廃棄(四-一八条削除)であった。そのほか、総則では七条の禁治産宣告の請求権者について、一九条の無能力者の相手方の催告権に関する規定(二・四項)の改正がある程度である。そして、改正の主題は、もちろん親族、相続編の全面改正にあった。いわゆる家族法での両性平等の確立、家制度の廃棄にからむその具体的問題の改正がテーマとされた。②その後の民法改正では、
第一章 民法の意義
二 民法典の成立
わが国は、明治期において、不平等条約の改正を直接の政治的動機とし、近代国家の形成を目指した。それには、先進国のもっている憲法をはじめとする近代的法典の編纂が必須とされていた。民法典の編纂も当然重要な基本的課題であった。すでに明治三年(一八七〇年)には、太政官に制度取調局が設置され、江藤新平がその長官とし、フランス民法を翻訳し、若干の修正をした上で、民法の編纂に当てようと計画されていた。その後、この民法典の編纂事業は、司法卿の大木喬任によって受け継がれ、明治一二年(一八七九年)には、フランスの法学者ボアソナードに対して、日本民法典の起草が委嘱された。この作業が完成したのは明治二三年(一八九〇年)で、法律として公布された。いわゆる旧民法である(この間、明治一九年に外務省に法律取調委員会が設けられ、明治二〇年にはその事業は司法省に移され、司法大臣山田顕義自ら委員長となって、財産編、財産取得編の大部分、債権担保および証拠編をボアソナードに、人事編と財産取得編の相続にかんする一部分を日本人委員に起草を命じた。要するに、財産法はフランス人ボアソナード、家族法は日本人委員ということである。この民法の編纂は、わが国の近代化、民法の特異性を知る上で、極めて重要である。財産法は近代資本主義を導入しながら、家族法には封建法理が温存された)。この旧民法は、明治二六年(一八九三年)一月一日から施行されることとされていたが、その直前になって強力な反対論(実施延期論)が起こった。旧民法を予定どおり実施すべしとする断行論との間に、民法上特筆される「法典論争」が展開された。そして、結局この論争は、明治二五年(一八九二年)の帝国議会にもちこまれ、施行の延期という名のもとに永久に葬り去られてしまった。この法典論争では、国粋主義者からの反対論が強力で、時の東京帝国大学教授の穂積八束の「民法出デテ忠孝亡ブ」の論文は象徴的であった。現代では到底信じられない論議であった。
明治二六年に改めて法典調査会が設置され、民法学の先駆者の穂積陳重、富井政章、梅謙二郎の三氏を起草委員に任命した。この起草委員会は、当時発表されていたドイツ民法第一章案を参考として案を作成した(ドイツでは、この草案は学者、実務家の批判を経て幾度も書き改められた末に法典となった)。そして、明治二十九年に民法典のうちの前三編(財産法の部分)が法律第八五号として公布された。親族・相続編については日本独自のものが必要との理由から、別の委員会において審議され、法律も別の法律として、同三一年に法律第九号として公布された(家族法の制定はあくまでも近代法とは別の家父長的視点であった)。そして、この二つの立法が一つの法典として明治三一年七月一六日から施行された。
こうして、明治三一年の制定の現行民法は、財産法と家族法では全く法原理を異にする跛行的な民法典として成立した。
三 民法典の改正・特別法の制定
1 民法典の改正 民法典において特筆されるべき改正は、敗戦後の占領国の主導のもとに、個人の尊厳、両性平等の確立を目指し、昭和二二年民法の改正がなされたことである。①昭和二二年の改正の主点は、総則では、一条・一条の二の民法の基本原理の導入制定、妻の行為無能力の廃棄(四-一八条削除)であった。そのほか、総則では七条の禁治産宣告の請求権者について、一九条の無能力者の相手方の催告権に関する規定(二・四項)の改正がある程度である。そして、改正の主題は、もちろん親族、相続編の全面改正にあった。いわゆる家族法での両性平等の確立、家制度の廃棄にからむその具体的問題の改正がテーマとされた。②その後の民法改正では、