平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
第9回は高木朋紘(体育4・長田)と竹本光之介(体育4・兵庫)です。
是非ご覧ください!
平素より弊部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
4年投手トレーナーの高木朋紘です。
既に野球をしていた兄と野球好きな祖父の影響で幼稚園の頃から野球と触れ合い、今日まで約17年間野球を続けてきました。
今回は、その17年間を振り返りながら、ラストシーズンに懸ける想いを書こうと思います。
僕にとって、この17年間は「伸び悩み」の野球人生だったと思います。
入学と同時に入部した「北須磨エンジェルス」は、"超"弱小チームでした。
かろうじで人数が揃い、初めて挑んだ試合は、0対18・3回コールド負け・全者連続三振。
次こそはと意気込んだ2試合目も、0対36・3回コールド負けでした。
こうして、ある意味鮮烈なデビューを飾りましたが、4年生の時に、「東須磨少年野球部」に転部し、これが僕の野球人生のターニングポイントとなります。
東須磨少年野球部の練習は、まさに「鬼」です。
30分の体幹トレーニングと30分間走から練習が始まり、地獄のように長いノックやいつ終わるか分からないランメニューなどを、時にはしばかれながら丸1日練習に取り組んでいました。
しかし、その鬼の練習が実を結び、小学校6年生の時には、オリックス・バファローズジュニアに選出されました。
この経験により、プロ野球選手という夢が確固たるものとなり、野球も勉強も誰にも負けないために何事にも人よりこだわって取り組むようになりました。
そして、野球も勉強も常に1番でありたいという思いを実現するために、高校は文武両道を掲げている長田高校に進学しました。
しかし、現実は甘くありません。
高校に入学して1年の夏からメンバー入りしたものの、秋頃から投げてはストライクが入らなくなり、打ってはバットにボールが当たらないようになってしまいました。
気づいたら、勉強も学校のテストで320人中318位になっていました。
しかし、これが本来の自分じゃない、自分はもっとできると自分に言い聞かせていました。
今の自分に納得できず、PPやタイヤ押しをひたすら繰り返していたら、部員に止められた覚えもあります。
オリックス・バファローズジュニアに選出され、投打に渡って活躍していたあの頃。
テストで1位をとっていたあの頃。
そんな過去の栄光にすがっているだけで、夢を実現させるためにやるべきことを明確にできていなかったように思います。
3年になってからはエースを担ってはいたものの、自分が描いていた成長曲線からどんどん離れていることを身に染みて実感しました。
そして、野球も勉強もできない自分に目を背け、わずかな可能性を信じて、筑波大学に進学しました。
しかし、やっぱり結果を残すことができません。
1年の秋頃からAチームに昇格しましたが、リーグ戦に出場することはありませんでした。
これが本来の自分じゃない、自分はもっとできるという思い込みもいつしか薄れ、プロ野球選手になるという夢も恥ずかしくて周りに言えなくなり、自分の内に秘めるようになっていました。
野球に対して燃え尽きたような、やりきったような感じがしました。
そして、僕は学生スタッフになることを決意しました。
野球で常に1番でありたいという自分のプライドを捨て、幼い頃から強く持ち続けた「プロ野球選手」という夢を諦めてまで、17年間続けてきた野球をなぜやめなかったのか。
それは、僕の野球人生が、「常に周りの環境や人に恵まれてきた」からだと思います。
僕が今、選手ではなく投手トレーナーとして頑張れているモチベーションの源泉も、自分ではなく筑波大学硬式野球部の部員にあります。
本人に伝えたことはありませんが、特に主将の西浦には大きな影響を受けました。
スタッフになり、周りに目を向ける機会が多くなったことで、チームが勝つためにこんなに努力をしている部員がいるということに改めて気づきました。
そして、今まではライバルだった仲間が、試合で活躍しては喜び、ミスしては悔しがり、本当に純粋な気持ちで仲間のプレーを応援できるようになりました。
他の選手だけでなくスタッフに対しても気を配り、行動してくれる仲間がいたからこそ、投手トレーナーの仕事を頑張ろうと思えます。
この仲間がリーグ戦で活躍するために最大限サポートしようと思えます。
そして、この仲間とリーグ優勝・日本一という最高の景色を共にしたいと思えます。
他にも、野球を通して多くの人との出逢いに恵まれました。
野球の技術や楽しさを厳しくも愛を持って指導して頂き、卒部して10年近くが経った今でも気にかけてくださる東須磨少年野球部指導者の徳さん、朝倉さん。
夢を実現させるために、何事も妥協しないことの大切さを教えて頂いた中学校の担任の先生である高山先生。
常に自分の目標として追いかけ続けた長田高校の先輩(現DeNA)の橋本達弥さん。
選手から学生スタッフになろうと思い始めた頃、親身になって話を聞いてくれ、応援してくれた地元の友達。
野球の時も、授業の時も、遊びの時も、顔が見飽きるくらい時間を共にした同期。
その他にも、習字教室で東須磨少年野球部に誘ってくれた塚田さんや、トレーナーとしての仕事を通して常に刺激を与えてくれた後輩など、挙げたらきりがないですが、野球人生を通して本当に多くの素敵な出逢いに恵まれました。
17年間、野球を続けてきてよかったと思える最大の理由です。
特に、両親には感謝の気持ちでいっぱいです。
野球をする上で、「やりきった」と思えずに引退するだろうと思っていたけど、野球を「やりきった」と心の底から思えるまで、この17年間野球を続けさせてくれてありがとう。
選手から投手トレーナーに立場は変わったけど、最後まで自分の立場を全うし、少しでも恩返しができるよう頑張ります。
そして、祖父は常に僕の1番の味方で居続けてくれました。
小さい頃から野球道具を買ってもらい、練習も一緒にし、結果が出ない時も「ともが1番のピッチャーや」と常に言ってくれました。
試合が終わる度に、家に電話をかけてくれ、良かったプレーを褒めてくれました。
当時は、また電話か、と思っていたこともあったけど、今思えばその言葉が、結果が出ず辛い時の大きな心の支えになっていました。
もうプレーで結果を残して恩返しをすることはできませんが、チームの一員としてかっこええ姿を少しでも見せられるように最後の数ヶ月頑張ります。
泣いても笑っても野球人生最後のラストシーズン。
今までの野球人生で、自分が選手として野球を楽しんだことはありません。
ただ、今スタッフとして選手の野球を支えていることには、非常に大きな楽しみを感じています。
中学の時、試合用帽子の裏に書いた「全国制覇」
高校の時、目標シートに書いた「甲子園優勝」
昔は、周りの目線を気にしながら恥ずかしげに書いた言葉も、今は胸を張って言えます。
「恵まれたこの同期と、リーグ優勝・日本一を達成し、最高の景色を共にしたい」と。
僕が出来ることは些細なことかもしれませんが、少しでもチームの勝利に貢献できるよう、邁進していきます。
そして、「野球をやってよかった」と思わせてくれた、全ての人に少しでも恩返しができるよう、ラストシーズン最後まで一生懸命頑張ります。
最後に。
このチームを引退する時には、輝かしい活躍をしたことも、挫折を味わったことも、学生スタッフとしてチームを支えたことも、全て自分の財産となり、「野球をやってよかった」と思えるようにしたいです。
体育専門学群4年 高木朋紘
兵庫県立長田高校
4年の竹本光之介です。
もう自分がこの文章を書く時期になったのかと、時の流れの速さに驚かされます。自分は本当に文章を書くのが苦手で、上手く伝えたいことを伝えられるか分かりませんが最後まで読んでいただけると幸いです。
まず初めに感謝を伝えたい先輩がいます。
尾上さんと傳谷さん。2人の先輩には本当にお世話になりました。
未だに、頑張ってるか?と電話をくれたり、ご飯に連れて行ってくれて相談を聞いてくれたり、自分が大学野球を最後までやりきれたのは2人の先輩がいたからと言っても過言ではありません。なかなか感謝の気持ちを伝えられる場面がないのでこの場をお借りしてお礼を言わせてください。本当にありがとうございました。
また、今後も自分のお世話をよろしくお願いします。笑
さて、筑波大学硬式野球部では、本当に多くのことを学びました。
増量のために栄養管理のLINEグループに入って、初日にケンタッキーを食べてはいけないとか、扁桃腺摘出の手術をわざわざ地元に帰ってやってはいけないとか、練習の最大のモチベーションは帰省であるとか。
というのは冗談で、目標に向かって本気で物事に取り組むことの大切さや、150人規模の団体の一員であるという責任感を持つことの大切さなどを学び、高校までの自分がいかに甘い考え方をしていたのか痛感しました。
そんな中で、私にとって最も大きな学びとなったことがあります。
それは「両親への感謝」です。
今となってはこのように思えますが、過去の自分はそうではありませんでした。特に中学時代の自分は反抗期が激しく、母親とは喧嘩の毎日で、さすがに女性に手を出すことはできず、抑えきれないイライラをぶつけた自分の部屋の扉には大きな穴が今でも空いています。(働き出したらちゃんと直しますすみません。)
あの時の自分を客観的に思い出してみると、本当に手に負えないクソガキだったなと思います。
しかし母親はそんな自分に対しても、野球をすることを全力で支えてくれました。
練習時の弁当を作ってくれたことやユニフォームの洗濯、練習試合をわざわざ見に来てくれたりもしました。
そんな母親を裏切るような発言や行動をしてしまった自分が本当に情けなかったなと思います。ごめんなさい。
父親も同じように、私の野球を全力で応援してくれました。私の父親はTHE関西の親父という感じで、普段から明るく話すのが好きな父親です。
そんな父親が私の前で涙を見せたことが2度あります。それは祖父が亡くなった時と、私の高校野球が負けて終わった時です。
この2つを並べて比べるのも表現として正しいのかわかりませんが、それくらい自分の野球に対して全力で応援してくれていたのかと思うと胸が熱くなります。
また、私が小学生の時に少年団のコーチをしてくれていたのですが、単身赴任で関東で働いていた時期も毎週末、神戸に帰ってきてくれて自分のために野球を教えてくれました。
現在関東に住む自分が、平日は朝から晩まで働いて、週末は神戸に帰るという生活を想像するだけで息が上がってしまいそうです。
そんな大変なことを父親は自分のためにやってくれていたのに、小学生だった自分はそれがいつしか当たり前になっていて、感謝の気持ちを忘れていたように思います。ごめんなさい。
このブログを書きながら過去のことを思い返していますが、私は両親に本当に迷惑ばかりかけているなと思います。反対に、両親は常に自分のことを全力でサポートしてくれました。
自分も将来子供ができて親になることがあれば両親のような親になりたいと心の底から思います。
今まで積み上げてしまった数えきれないほどのごめんなさいという謝罪の気持ちを、今後の人生でありがとうという感謝の気持ちで返していきたいと思います。
ありがとう、おかん、おとん。
最後になりますが後輩と同期に伝えたいことがあります。
まずは後輩に向けて。
それは両親の支えなしではまだまだ子供の自分たちには何もできないということです。
これは野球に限らずです。そんなことわかってるわとツッコまれそうですが、これは意外と忘れがちなように思います。
自分もそうだったのですが、どれだけ頑張っても結果が出ず、モチベーションが保てない時期が誰しも来ると思います。
そんな時は一度両親のために頑張ってみてはどうでしょうか。私自身も高校までは自分が結果を出すために、自分が達成感を得るために練習していました。
しかし、それだけでは大学野球を乗り切るのは難しいように思います。自分がリーグ戦に出て活躍することで誰かが喜んでくれるという想像をすれば、もう少し頑張ってみようという気持ちになれるかもしれません。
惜しくも私はリーグ戦にベンチ入りはできたものの、試合に出場するという目標を未だ達成できていませんが、下級生の頃にCチームからスタートした自分がAチームの試合で使ってもらえるまでに成長できたのは、先輩や同期の支えがあったのももちろんですが、この心の持ち方をしていたことも大きな要因だと思います。
また、リーグ戦のベンチに入れる人数には限りがあり、全員がリーグ戦出場の目標を達成できるわけではありません。
しかし、たくさんの理不尽や辛い練習を乗り越え、目標に向かって必死で取り組むというその過程自体に最大の価値があるのだと私は思います。
だから後輩のみんなが引退を迎えた時にどのような結果であれ、後悔がなく、やり切って良かったという清々しい気持ちでいられることを切に願っています。がんばれ!!
次に同期に向けて。
まず、Bヘッドの榊原に感謝の気持ちを伝えたいです。
スタッフミーティングを終えて、選手として残してくれた自分ですが、結果を残せないどころか、練習への取り組みも中途半端でした。そんな時に「中途半端なことするなら選手をやめろ」と言って、自分の行動の愚かさに気づかせてくれたことに本当に感謝しています。
あのまま選手を続けていたらAにも一切呼ばれないただのチームのお荷物になっていたと思います。本気で向き合ってくれてありがとう。
他にもみんなに伝えたいことはたくさんあります。俺はお前たち(特に今津西浦)にバカにされて笑われることにすごく腹が立ちます。普通にキレます。
けど、そんなみんなが本当に大好きです。これは本心です。
つくば駅に迎えに来てくれと言われても行かないのは嫌いだからじゃありません。めんどくさいだけです。
そんな大好きなみんなとリーグ優勝、日本一を達成できること以上に幸せなことはないと思います。最後の最後でみんなで笑って、うまい酒飲もうな!!
体育専門学群4年 竹本光之介
兵庫県立兵庫高校