・山草の高きしげりに暗がりし草うごかして水はいきほふ・
「たかはら」所収。1930年(昭和5年)作。「草うごかして」は万葉集の額田王の作品「簾うごかし秋の風吹く」を想起させる。
茂吉の自註から。
「かういう歌をも作った。此等の中には当時短冊などにも書き、歌壇でも稍注意を牽いたものもあったが、一冊の歌集にしてみたらどういふものであらうか。」(「たかはら・後記」)
「即実の歌であるが、自然そのものに深秘性があるから、この一首にも何処かに深秘性がある。」(「作歌40年」)
このとき茂吉は妙高温泉に講演に行って、それが済んでから妙高高原を歩いた。菅沼能という人物が同行したと、茂吉自身が書き残している。菅沼という人物は地元の人か、編集者かだろう。
佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」も、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」もとりあげていないが、塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉・百首」は次のように述べる。
「妙高行の歌群は< 妙高温泉 >< 越後妙高山 >< 妙高・野沢温泉 >の三連にわかれて47首、信濃の山山の木の芽吹く頃は、もろもろの歌人の佳吟に事欠かないが、茂吉の群作も、みづみづしく、男の二人旅のほろ苦い寂しさが心に残る。」
直接冒頭歌をとりあげてはいないが、「47首」という単位で批評している。なかには茂吉の自註と異なる鑑賞をしているものもあるが、それは余り問題ではないと思う。以前の記事にも書いたが、塚本邦雄は「申し分ない叙景歌」という判断をしているのである。
「申し分ない叙景歌」を47首揃えることが如何に難しいか、また、それが茂吉の底力であることは、すでに述べた。
だが僕がこの一首に注目するのは、次の二点である。
一つは茂吉自身が「自然そのものに深秘性がある」と述べているところであり、二つ目はやはり茂吉自身が「一冊の歌集にしてみたらどういふものであらふか」と述べているてんである。
まず一つ目。自然そのものに神秘性を感じ取ろうとしているところである。茂吉の自註の少し前の部分に「詩の心理としては客観と主観の融合にある」とも述べている。茂吉の「写生」が汎神論的であることを、茂吉自身が意識していたことになる。また同時に茂吉の「写生」が、客観的事実を詠むだけでなく、主観と融合(モノを詠むことによって、主観を表現する)させているところである。ここにリアリズムと茂吉の「写生」の違うところである。それを茂吉は明確に自覚していたことになる。
次に二つ目。「(こういう作品)だけで、一冊の歌集にしてみたら、どうであらうか」と述べているその意味である。この作品のすぐ前に、例の乱調の歌・漢語の羅列に冷静さを失いつつある茂吉の心境がかいま見える作品がある。おそらく茂吉は冷静に自然の中で大きく深呼吸するような作品だけで、歌集を編みたかったのではないだろうか。冷静になってみれば、かの漢語の羅列の作品をはじめとする「機上詠」は不本意な作品ではなかったか。もしかしたら、かの「機上詠」は軍部の要請が直接ではないにせよ、あったのではないか。少なくとも世の中は戦争へむかっており、その時代の要請に否応なく巻き込まれていったのを慎重な言い回しで述べているのではないか。そんな風に思うのである。
とにかく茂吉をふくめて日本全体は戦争の方へ向かっていたし、治安維持法は最高刑が死刑になっていた。
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