岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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齊藤茂吉47歳:蜩の声を詠う

2010年11月27日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・むらがれるものの寂しさとおもはむか一谷(ひとたに)に鳴くひぐらしのこゑ・

 「たかはら」所収。1930年(昭和5年)作。

 茂吉の自註は「作歌40年」「たかはら・後記」にはない。佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」と塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉まで・百首」もとり上げていない。

 長沢一作「斎藤茂吉の秀歌」は次のように述べる。

「一つの谿(たに)をおおうように・ひぐらし・が盛んに鳴いている。それを< むらがれるものの寂しさとおもはむか >といった。この上句が、状態を一挙に捉えたといってよいような表現である。強く、大きいひびきである。・・・このように単純で、しかも大きく流動する声調は他の追随を許さない。」

 茂吉の自註に頼らない批評である。僕はそこと同時に、上の句の表現に注目している。「おもはむか」は作者の主観であり、厳密なリアリズム的客観写生にはない表現だ。土屋文明との差異がここにあり、また、茂吉の「写生論」の具現化である。

 「もの」を詠んでいるようで、そこに巧みに主観をしのばせる。その主観が目立たないのは、「おもはむか」という意思の助動詞の語感のやわらかさと、下の句の表現の的確さである。

 かつて茂吉は、「すべての谷」を「八谷・やたに」と表現したが、ここの「一谷・ひとだに」という表現は「一つの谷」という言葉の意味と、まるでその谷に蜩(ひぐらし)の声が凝縮していくような印象をかもしだす。「一谷」は茂吉の造語だろうが、それによって短い言葉で印象が鮮明になる。これが造語が成功するかどうかの目安だ。

 主観と印象。これは形をかえて佐太郎に受け継がれていく。その意味でも注目作と言えるだろう。





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