先ず書評の冒頭の部分から。
「作者は毎日短歌、日本語等に関するブログを更新している。斎藤茂吉、佐藤佐太郎についての記事が最も多い。尊敬するだけだはなく、時には強く批判をする。」
次に書評の中ほどから。
「作者は茂吉、佐太郎に『新』を積むと言い切る。」
確かにその通りだが、そのような気概でやらなければ短歌は滅びてしまうだろう。僕はそう思っている。これは歌集の「あとがき」に関してのものである。
「(茂吉と佐太郎との)上に『新』を積む。『真』であり『信』である。」
うまいことをいうものだ。確かに『新』は『真』であり、『信』でもある。だが「上に」ではない。茂吉と佐太郎との業績をふまえたうえで、「現代に活かす」のだ。
さて3首。
・みずからを諭しつつゆく細道に葡萄若葉の色みずみずし・
・切花は花瓶の中に勢いて食卓上に花粉を散らす・
・書きかけの手紙の続きをかく夜にわが筆跡の変化に気づく・
一首目。僕の住んでいるのはマンションだが、近所には戸建て住宅もある。ブロック塀に蔦を這わせたり、葡萄の蔓を這わせるのは珍しくない。そこを色々と考えながら歩く。大抵は「自省」に近い心境で。そういったときに、ふと気づいた「葡萄の若葉」は美しい。美しいが、うら悲しくもある。そこを詠んだ。たしか六月のことだった。
二首目。食卓に切花を活ける。たまにではあるが、ほとんどは春である。「春の食卓」。切花は、いわば自然の摂理からも切り離されている。だが死んではいない。やがてしぼみ枯れてゆくのだ。だがその前に花粉を散らす。そこに生命力を感じた。
三首目。僕は手紙や葉書をよく書く。体調の関係で、書きかけのものを一晩置いておくのも珍しくない。書きかけの続きを書くと、筆跡が変化している。筆跡鑑定をしたら、変化というほどのものではないが、それでも体調が悪ければ字は乱れる。斎藤茂吉の自筆原稿は細かい字で書かれているが、僕の字は「踊る」のだ。安定していない、といえばそれまでだが、気づけば気になる。気になれば、心が「動く」。そういう心境を詠んだ。
歌集の中には、「手紙」「葉書」が頻繁に出てくる。前歌集は「水」が頻繁に出てきた。だから今回の歌集の反響のなかでは、封書一式を送ってこられる方もいた。いわば病気療養中の僕の日常である。
その書評を書いた方からは、別途「オリオンの剣」「剣の滴」の両歌集の計二十八首を取り上げた、批評をいただいた。こういった批評からも学ぶ事は多い。
同じ短歌雑誌に出詠している仲間あればこその嬉しくも、有難いことだ。