岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

第二歌集「オリオンの剣」の社会詠

2011年09月15日 23時59分59秒 | 岩田亨の作品紹介
佐藤佐太郎門下は「社会詠」を「時事詠」「機会詠」と呼ぶ。そして短歌の素材にしない場合が多い。これはいくつか理由がある。

 ひとつは、佐太郎の師の斎藤茂吉が戦時中膨大な「時事詠(戦争詠)」を「戦意高揚」を煽る歌として発表し、戦後になってその責任を問われた事。つまり失敗したからである。

 もうひとつは、それを見ていた佐藤佐太郎が作品の題材としなかったからだ。社会に題材をとったものはあるが、飽くまで「どの時代でも通じる普遍的な抒情詩」の方向をとったのである。

 例えば、

・戦(たたかひ)はそこにあるかとおもふまで悲し曇のはての夕焼・「帰潮」

は制作年代から見て明らかに朝鮮戦争を意識しているが、「戦い」をどのように解釈するかということを読者にまかせ、普遍的抒情詩とした。

 さらに「純粋短歌論」にあった、現代の思想や社会を詠うというくだりの「出来ないというのは怠惰で非力な歌人か評論家」という文を削除した。「社会・思想を詠む短歌」が余りにも佐太郎の考えたものとかけ離れたからだ。

 戦後社会を様々に詠んだ近藤芳美の作品のなかに、特定の政党(共産党)への思い入れが過ぎ、それが北朝鮮や朝鮮戦争での中国人民解放軍の義勇軍へのシンパシーへつながり、半世紀も過ぎれば通用しない作品になってしまったのがその一例。(カテゴリー「短歌史の考察」の「近藤芳美の代表歌集」参照)「近藤芳美集第1巻」の岡井隆による解説の「近藤芳美がになったものは余りにも大きすぎた」「近藤作品のもつ歪み」とは、おそらくこう言うことを指すのだろう。

 朝鮮戦争をはじめ、60年安保・日韓条約・警職法・70年安保・消費税などの問題が歌壇では盛んに短歌の素材とされた。

 問題が二つある。ひとつは上質な社会詠でも、その事件の内幕が年月とともに明らかとなると、作品が意味をなさなくなってしまうのだ。近藤芳美の朝鮮戦争前後の作品には、明らかに「北朝鮮・中共軍=正義」という思考が見え隠れする。ところが朝鮮戦争は実は、毛沢東・スターリン・トルーマンの駆け引きと、スターリンの了承のもとに起こされたものだということ、後の文化大革命によって示される毛沢東の粗暴さ、トルーマンの核兵器にあらわれる対日政策。これらが学問的・歴史的に明らかになると、近藤芳美の作品のなかにはたちまち色褪せてしまうものが少なからずある。

 だが、

・戦争を拒まむとする学生ら黒く喪の列の如く過ぎ行く・「歴史」

・反戦ビラ白く投げられて散りつづく声なき夜の群衆の上・「冬の銀河」

のように普遍的なものもある。

 もう一つは近藤作品にはないが、まるで「デモ行進のシュプレヒコール」のようになってしまうものが少なくないのだ。

 そこで僕は考えた。時代の中に生きる人間の一人として、詠まざるを得ない社会的事件に見てとれる、人間のエゴを短歌作品にできないか。時々の政治状況をそのまま詠んだのでは普遍性がない。

(例えば、旧東京1区の衆議院議員で共産党の幹部だった紺野与次郎は、亡くなってからは徳田球一グループの分派主義者で党中央を事実上乗っ取っていて極「左」冒険主義をとったとされ、野坂参三は戦前コミンテルンで山本懸蔵をスターリンに密告し、戦後はソ連大使館と連絡をとって指示を仰いでいたとして除名された。・これは共産党自身が認めていること。)

 だから僕は特定の党派を詠まないこと、政治家の人名を入れないこと、内容を普遍的なものに限ること、こういうことに留意すれば「社会詠」は可能だと考えた。そしてそれにそって、密かに作りためた作品群、およそ300首の中から、10首余りを歌集に収録した。以下の作品はすべて「オリオンの剣」からのもの。



・戦場は海のかなたにありぬべし青また青の連なりの果て・

・銃を背に行軍しゆく兵士らの靴音聞こえず画面の中は・

・川風の止む時ことに蒸し暑き昼ヒロシマの街を歩みき・

・爆風ものぼりゆきしやナガサキのここなる坂に白猫歩く・

・犬猫はその数の中に入れられずヒロシマ・ナガサキ死者二十万・

・「爆弾が空から降って来たんです」大正生まれの母の初夢・

・戦場に誤爆ありきと聞きし夜は大きな鏡にわが顔映す・

・映像の中に死にゆく子どもらを見るこの夜に暖房を切る・

・老いたれど孤児と呼ばれる人々が肉親捜しに「来日」したり・

・ダイインをする群衆の映像を見て蕎麦喰いき会社員われは・


 これらの作品が「人間のエゴ」を「見逃さない」。(「運河」)「世間で社会詠と呼ばれているものをこえたものがある」(「角川短歌」)と評価されたのは、僥倖だった。

 戦争には原因があり、単なる「人間のエゴ」ではないが、その解明は歴史学・経済学・政治学の担う役割であり、短歌の役割ではない。坪野哲久・山田あきなどプロレタリア短歌の歌人たちの作品もそう言えると思う。






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