・夏日さす津軽の海やひとさまの潮のながれの前進さびし・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」118ページ。
佐太郎の自註から。
「津軽海峡の潮流は時刻によって変わるのだろうが、その時は日本海から太平洋に向かって流れるらしく、いちめんに白波が立って流れていた。その場で< 前進 >という言葉が出来た。前例があるか、ないか、どちらにしても、そう言い得たのに私は満足している。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
ここでいう「ひとさま」は「海を一面に覆う流れ」のようだ。自註にあるように「このときは」日本海から太平洋に向かって、潮が流れる時刻だったのだ。前に出てきた「陸< くが >果つる」が場所の切り取り(限定)とすれば、ここで表現されているのは時間の切り取り(限定)だ。
斎藤茂吉の作品は「いろも無く・・・」の歌で指摘したように「遠近感・奥ゆき」のある叙景歌が多いが、それに対し佐太郎の作品は「場所と時間」の切り取り(限定)を感じさせる叙景化歌が多い。
以前も書いたが、斎藤茂吉を「空間を切り取る名人」とすれば、佐藤佐太郎は「時間を切り取る名人」である。これは案外知られていないことで、10年ほど前にプロレタリア短歌の系譜をひく歌人に話したら、驚かれていた。
「ただの写生ではいけない」とその歌人は言ったが、「写生=見たものを見たまま表現する」とその歌人は理解しているらしく、叙景歌の難しさもその歌人には分らなかったようだった。もう半世紀以上「思いこんでいる」ようだったので、それ以上説明するのは止めた。
さて冒頭の作品だが、佐太郎の作品としては地味な方である。「前進」が「さびしい」のは、時が移れば「後退」にかわるからであろう。「潮の流れ」を詠みながら、そこに作者の主観が表現されている。
まさに岡井隆の言うとおり、「きちんと詠まれた叙景歌はそれだけで立派な抒情詩」なのである。