斎藤茂吉と同じく、佐藤佐太郎も戦争詠を詠んでいる。その構成は斎藤茂吉とほぼ同じ。
1、儀式歌として天皇を讃える作品。
2、戦争を煽る作品。
3、戦時下の心情を詠った作品。
ただ、斎藤茂吉と違うのは、1と2の作品の区別がさほど鮮明でなく、3の作品が戦争に対する、やや冷めた視点を持っていることだ。
1儀式歌:(紀元2600年)
・紀元二千六百年とこしへに窮みなけれど栄へつつあり 「歩道」
2、戦争を煽る歌:
・大詔あふぎて待てばあなさけや討つべき敵(あた)を示したまへり 「しろたへ」(日米開戦)
・大君の海をまもりて戦へばささげ尽くして還るともなし 「しろたへ」(特攻隊讃歌)
3、戦時下の心情を詠った歌:
・戦ひのさなかに肉声はひびきけり先年見し映画なりしが 「歩道」
・今しばし砲のけむりのしずまりに兵みゆるとき心はたぎつ 「歩道」
・シンガポール遂におちぬと夜ふけて雪凍りたる道を帰りぬ 「しろたへ」
ここに出した作品のほかに、「しろたへ」の後半には、かなりの戦争詠がある。戦況の変化に即し、各種の報道を題材に作品化している。
このことに関し、佐太郎自身は、「しろたへ」の後記で次のように述べる。
「前集『歩道』は支那事変の渦中に昭和15年に発行になったが、戦争関係の歌は多くなかった。然るに昭和16年12月8日を以って皇国は大東亜戦争に突入し、隆替をこの一戦の賭けることとなった。肇国三千年の光輝を負ひ、大詔を奉じて戦ふ国の上に勝利は必ずある。しかも我は古より神々の見たまふ国である。・・・作の結果は如何にもあれ、皇国民として又歌つくりとして当然の要求に従って進んだので、私は纔か(わずか)に斎藤茂吉先生の作品にまねび、他に記紀万葉から古詩の翻訳類を参考として覚束ない武装をしている。」
僕はここで「作の結果は如何にもあれ」「覚束ない武装」とい表現に、「作品の出来は良くない」「消極的協力」という傾向を見出す。戦果に躍り上がらんばかりの斎藤茂吉、確信犯的に戦争体制に積極的の関わった、斎藤瀏との違いがこのあたりにあろうかと思う。
戦争協力は、明らかな過誤だ。これは「斎藤茂吉と佐藤佐太郎」でも書いた。その過誤から、抒情詩としての純粋性を、佐太郎は構築する。
ちなみに、昭和28年刊行の「佐藤佐太郎歌集」(角川文庫)の「歩道」「しろたへ」には戦争詠は収録されていない。自註歌集「海雲」にも収録されていない。この二冊は、佐太郎の自選だが、佐太郎が戦争詠が不毛だったと考えていた証左だろう。
また、佐藤志満編、「佐藤佐太郎歌集」(岩波文庫)、「佐藤佐太郎百首」(短歌新聞社)にも、収録されていない。後進もまた、佐太郎の戦争詠に価値を見出していないのだろう。