伊藤左千夫。正岡子規より年長であるにもかかわらず子規の弟子となり、旧派和歌から短歌革新をめざす「根岸短歌会」の中心メンバーとなった。まだ弱小勢力である「根岸派」の草創期を支え、歌人と小説家の二つの顔を持ち、「馬酔木・あしび」「アララギ」の創刊・経営を主導した。島木赤彦・斎藤茂吉と歌論上の意見をたたかわせた反面、多くの優秀な弟子を育てた。そういう伊藤左千夫とはどういう人だったのだろうか。
年譜によれば1864年(元治元年)生まれ。正岡子規より3歳年長である。「富国強兵」を訴える建白書を提出して、政治家を志し明治法律学校に入学するも眼病を病み就学を断念。1885年(明治18年)牛乳搾取業に就職、1889年(明治22年)に独立開業。
1893年(明治26年)、30歳で茶の湯と和歌の手ほどきを受けた。14歳のころから漢詩・特に屈原を愛唱し、「史記」を学ぶなど漢学の素養もあったのだろう。1900年(明治33年)正岡子規を訪問しその弟子となる。前年の新聞「日本」紙上で子規に論破され、逆に門人となったのである。
以来「根岸短歌会」の歌人として活動するが、子規の死後「馬酔木」創刊するも1908年(明治41年)終刊。三井甲之の「アカネ」にあとを託すが、同人たちの反発が収まらず蕨真が「阿羅々木」を創刊するや、これに全面協力。巷間、「根岸短歌会の分裂」と言われた。
その後、島木赤彦の「比牟呂」と「阿羅々木」が合併、発行所を左千夫宅に移し、誌名を「アララギ」と改名した。この間死に至るまで短歌・小説を発表し、「根岸短歌会」のまとめ役だった。その死は1913年(大正2年)、50歳の時で、当時としても若死にだった。
特徴的なのはその活動範囲の広さである。先ず分野。短歌・小説・雑誌の経営(おそらく営業まわりもしただろう)・家業の牛乳搾取業。
次に、それぞれの仕事の質。短歌は短歌史に残る業績がある。小説も「野菊の墓」は今なお文庫本のロングセラー。映画化もされた。雑誌の経営では正岡子規が死去したときには機関誌も持たず、歌壇の弱小勢力だった「根岸短歌会」の礎を築いた。牛乳搾取業(現代語でいえば都市近郊の酪農)も当時としては最先端の産業のひとつだろう。
そして弟子の多彩さ。島木赤彦・斎藤茂吉・中村憲吉・土屋文明。それに加えて、子規の弟子、長塚節・岡麓らをもまとめる力があったのである。政治家を志し断念したものの、ここまで来ればその「政治力」を感ぜざるを得ない。
伊藤左千夫と長塚節・斎藤茂吉との論争はよく知られているが、自分の説や批評を「定説化」しなかったのが功を奏したのだろう。それが様々な作風の歌人が左千夫門下やアララギから生れた原因だろう。岡井隆のいう「大同団結」である。アララギの編集発行人が変わるときに、古い会員が「外様」として退会するようになったのは、島木赤彦没後。伊藤左千夫存命のときは考えられなかった。「外様」の退会が当然のようになったのは、戦後である。そういう意味で伊藤左千夫の度量の大きさを僕はしばしば感じる。
最後に正岡子規の門人となったにもかかわらず、考えが食い違ったこと。新聞「日本」紙上での論争、子規の「写生」論は絵画用語だとして「写実」を唱えた。短歌の内容と声調を一体のものと考える子規に対し、声調が内容に勝るとした点。若いころ政府に提出した「富国強兵」を訴える建白書も、初期の自由民権思想の影響をうけていた子規の立場と正反対である。
これらの業績は、今となっては古くなっているものもある。特に歌論と実作。しかし、そういうことにいち早く取り組み、いち早く論を展開したことに価値がある。
以前の記事にも書いたある美術館での会話。
子ども:「ここにある絵。僕のお父さんの絵の方が上手だよ。」
学芸員:「写生がいつ始まったか知ってるかい。」
子ども:「知らない。」
学芸員:「絵の具をチューブに入れる技術が発明されてからなんだ。それまでは画家は暗いアトリエの中で書いていんだ。ここに飾ってある絵の作者はみな、絵の具をもって最初に屋外にとびだした人々だったのだよ。何でもそうだけれど、最初にそれをやった人のものには特別な意味があるのだよ。」
たしか印象派の絵画展だったと思う。
ちなみに僕は岩波文庫「左千夫歌集」と岩波文庫「斎藤茂吉歌集」を持っているが、両者を読み比べると伊藤左千夫の作風の特徴、子規との違いがよくわかる。斎藤茂吉が「伊藤左千夫を< 選歌の師 >、長塚節を< 本来的な意味での師 >と呼んだ理由も。
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