岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「先生と呼ばれること」

2013年02月02日 23時59分59秒 | 作歌日誌

 若い頃は「練磨、研鑽、修行」などといった言葉に抵抗感があった。

 だが短歌を作る様になって、少し考え方が変わってきた。

 短歌は研鑽すれば、誰でも自己表現が出来る。そして短歌は「終わりのないマラソン」と言われる。

 「10年間ムキになりなさい。そうすれば結社の先輩にも見劣りがしない作品が出来るでしょう。」

 これは僕が短歌を作るようになって詠んだ入門書の言葉だったと思う。


 それを真に受けて、僕は10年ムキになって短歌を作って来た。(佐太郎門下は「短歌は『詠う』ものと言われるが)そしてこの4月から「星座」の選者を務めることになった。

 「星座の会」の出す「星座ー歌とことば」は季刊だが、その隙間を埋める様に「星座α」が年に2度出される。

 僕は「星座α」では参与を務めていて、尾崎左永子主筆の選歌のお手伝いをしている。僕自身は「選者の修行」のつもりだった。だが事実上の「選者」だったので、近頃「岩田亨先生」という宛先の郵便物が「星座」、[星座α」の会員から届くようになった。

 「先生と呼ばれる程のバカじゃなし」と言う言葉があるが、それとは別の意味で、僕は先生と呼ばれるのを好まない。

 なぜなら、先生と呼ばれる様になって明らかに短歌が下手くそになった人を少なくとも3人は知っているからだ。


 ひとりは大結社の選者だったが、そこから独立して自分が主催する結社を持った人。その人の歌集を第一歌集から第五歌集まで持っているが、独立前の第一、第二歌集が、独立後の歌集より作品の質が高い。

 あとの二人は結社を渡り歩くひとで腰がすわっていない。


 僕の事を「先生」と呼びたければ、呼んでも構わないが、僕自身は「短歌は一生かけてもゴールはない」と考えている。短歌を詠むのを止める日まで「研鑽」は続く。

 尾崎主筆のいう「奢ることなく」でありたいと思っている。






最新の画像もっと見る