・氷塊がよりあひて海をとざしたるいちめんの白満つるしづかさ・
「冬木」所収。1962年(昭和37年)作。
佐太郎の自註。
「海が流氷にとざされるところは日本では知床半島の海などである。・・・白い海は息をのむ静かさだった。しかし、うちかさなった氷塊の稜はあらあらしく、無音のなかにきびしく光っていた。・・・『いちめんの白満つるしづかさ』が言いたいところ。4句が名詞で切れ、5句が名詞で切れる調子である。上句は『白』の成りたちを説明して現実観を出した。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
北海道のオホーツク海沿岸は流氷の南限である。その海に流氷が押し寄せ、眼の前の一面が流氷に覆われる。壮大な景色だ。自註のなかの「説明」は、いわゆる説明ではなく、表現ととっていいだろう。いわゆる説明は理屈であって、詩ではない。
下の句のリズム。4句目の名詞どめ、結句の名詞(「さ」が付くことによって形容詞から名詞に転化したもの)どめが、冷たさや切迫感を表している。
佐太郎の第8歌集「冬木」の巻頭歌だ。「後記」には次のようにある。
「昭和37年に流氷に閉ざされた海を見、オホーツク流氷の末端を見た。それから昭和38年に荒崎に渡来してゐる鶴を見、昭和39年に白鳥を見た。これらは長く心にかけてゐたものを、みづからすすんで見たのである。」
みずからすすんで見る。これは佐太郎にとって、ひとつの転機だったことだろう。今までは「見えるもの」を詠んだ。ここでは「すすんで見た」のだ。この作歌態度の違いは大きい。後者の方が難しい。「写実」の短歌を詠むものにとっては、よく分かるだろう。
さらにこの一首。「すすんで見た」にもかかわらず、わざとらしさがない。「すすんで見た」のに、「見えたもの」を詠んでいるように自然に感情が流露してくる。これもまた難しい。ただそこに作者の感情が「写」されているように思う。このことは岡井隆がその著書「歌を創るこころ」で述べている。
「冬木」にはそうした叙景歌が多い。順次、記事にしたいと思う。