・原子炉大内山に建設廃案となりにけりすめらみこと万歳?・
「風雅黙示録」所収。1996年(平成8年)刊。
先ずは読み方から。
「大内山=京都仁和寺の北にある山。のちに皇居のことをさす。:すめらみこと=天皇のこと」
歌意は明らかだ。「原子力発電所を首都東京の皇居内に建設する法律案が廃案となった。これで天皇も安泰だろう。」
強烈な皮肉である。原子力発電所が安全ならば、火力発電所とおなじ人口密集地帯に建設しても構わないだろうに、というのである。
もちろん架空の話だ。原子力発電所の建設の場所決定を法律で行うことはないし、まして皇居のなかに建設するという計画が持ちあがる可能性などゼロである。皇居に原子力発電所を作るには東京電力が皇居の土地を買収しなければならない。それは絶対にありえない。
しかし次のような視点はありうる。原子力発電所の建設用地と言えば決まったように地方それも過疎の村に白羽の矢があたる。それも「地方振興策」という莫大な金と引き替えに。その資金が東京電力から出るものなのか、政府の補助金なのか僕は知らない。が支払った電気料か税金かのどちらかである。
その資金で地元市町村では雇用の場が創出されたり、福祉センター・図書館などが建設される。だが今度のような事故が起これば、雇用も福祉も図書館もへったくれもない。そこを塚本流に表現したのだろう。リアリズムならば叙景歌にするだろう。
チェノブイリ原発の事故のときに識者は「日本の原発とは型が違うから」と日本の原発の安全性を強調した。だが「軽水炉型原発」も「沸騰水型原発」も一度事故を起こすと大惨事になることが明らかとなった。周辺住民(30キロ圏内・アメリカでは100キロ圏内だそうだが)の避難、放射性物質の野菜・原乳・水道水への影響。加えて海の汚染も問題視されてきた。退院したばかりの僕も薬が手にはいらなくなった。
停電は困る。だが原子力災害はもっと困る。まして日本列島は4枚のプレートの上に乗っており、活断層がどこにあってもおかしくないという。こういう地震列島に原発は本当にふさわしいのか、もう一度考えなおす必要があるのではないか。
こうしている間も放射性物質は放出されつづけている。こういう現状が短くて数週間、長くて数か月続くということだ。(3/31現在)
なお岡井隆には次のような作品がある。
・原子炉の火ともしごろを魔女一人膝に迎へてたのしむわれは・
「天河庭園集」所収。1978年(昭和53年)刊。
以下、加藤治郎の解説。「市民に電力を供給する源であると同時に、致命的な害毒を撒き散らすこともある。利便と危険の両面を持つ魔的な存在。・・・魔女との性愛を楽しむ夕暮れの彼方に禍々しい原子炉の火がともる、現代の不遜なエロス。」
それにしても今度の事故。やたらカタカナ語が出てくる。「モニタリング」「シュミレーション」「サーベイ」。何も日本人なら日本語を使えなどと言うつもりはない。しかしこういった言葉を聞いていると、何だかサバイバルゲームのコマにされているような気がするのだ。これが「語感」というものだろう。