岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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山本五十六と帝国海軍

2012年01月15日 23時59分59秒 | 歴史論・資料
どういう訳だか、「日本の陸軍は好戦的だったが、海軍ことに山本五十六元帥は穏健だった」という話をよく聞く。(江藤淳「海は甦る」など)。

 だがそれは事実だろうか。そうは思えない。海軍だって好戦的だったのではないか。

 先ず陸軍のみが好戦的に見える理由。

 第一。15年戦争開始から日米開戦まで、戦争開始は常に陸軍だった。

 第2次山東出兵(1928年)。居留民保護を名目としたが実際は、蒋介石の北伐阻止のための軍事作戦。田中義一(陸軍大将)内閣の決定。強行論を唱えたのは白川義則陸相と森格外務政務次官(長江ぞいに鉱山の利権を持つ実業家・代議士)。

 済南事件(1928年)。陸軍少将・斎藤瀏(歌人)が警備司令官として、歩兵三個中隊(450名)の他6000名の軍を統率。のちに(第3次山東出兵)関東軍・朝鮮軍の2個師団(2万4千名)・名古屋の第3師団から1万5千名増派。
 
 張作霖爆殺事件(1928年)。関東軍高級参謀・河本大作大佐が指示。満州事変(1931年)。関東軍高級参謀・板垣征四郎、同作戦主任参謀・石原莞爾中佐が指揮。朝鮮軍司令官・林銑十郎が満州へ無断越境。上海事変(1932年)。陸軍・田中隆吉小佐の謀略が発端。国際社会の目を満州からそらすため。板垣参謀の指示による。(戦後40年以上経って、本人が著書で告白している。)日中戦争(1937年)。現地で停戦協定が出来ていたのに、陸相・杉山元(陸軍大将)の要請で閣議が開かれ、近衛内閣は派兵を決定。

 第二。海軍は常に後追いだった。しかし功をあせって、上海事変では駆逐艦12隻、陸戦隊925名を派遣した。(海軍の活躍の場を作りたいと日米開戦に及んだとも言われるが、検証が十分ではない。)

 第三。日米開戦までは、主戦場は中国大陸。部隊の中心は陸軍だった。だが海軍が出動しなかった訳ではない。上海事変での艦隊・陸戦隊の派遣のほか、南京攻略の直前には、爆撃機による空爆をおこなっている。

 関東軍は日露戦争後、日本が中国より99年租借したリャオトン半島(旅順・大連)と満鉄付属地の守備をする陸軍、朝鮮軍は日本の植民地の朝鮮半島に軍政を引く陸軍。ともに東京の陸軍参謀本部・陸軍省・教育総監部の管轄下にあった。この三庁の権限の範囲は時代によって異なる。


 では海軍は好戦的でなかったのかというと、そうではない。

 第一。5・15事件(1932年)の実行部隊は海軍の青年将校率いる部隊。直前の「血盟団事件」とともに「軍部ファシズム」へ道を開いた。

 第二。日米開戦にあたっての海軍の態度。「石油の備蓄は2年。この際打ってでるほかない」(永野修身海軍軍令部総長)と天皇に奏上している。

 第三。真珠湾攻撃(1941年)。空母6隻、戦艦2隻、重巡洋艦2隻などからなる機動部隊を南雲忠一第一航空艦隊司令長官(海軍中将)が率いて行った。全体の指揮は連合艦隊司令長官・山本五十六だった。


 このように日米開戦で主役に躍り出たのが海軍だった。中国戦線が泥沼化するにしたがって、日本と米英の利害の対立が激しくなった。例えば、満州事変のリットン調査団は事変を「日本による侵略」と断定したが収拾案としては「満州の国際管理化・日本軍の駐屯・日本の権益の承認」などを内容としたが、日米開戦直前の日米交涉の「ハルノート」では満州を含む中国からの全面撤退が条件となっていた。おまけにABCD包囲網で石油などの資源の確保、日中戦争の継続が困難となった日本は日米開戦に踏み切る。

 このときの日米の国力の差は、石炭:9:1、石油528:1、鉄鋼12:1、アルミニウム6:1(小数点以下四捨五入)だった。

 ここで問題なのは日本軍の認識。長期的戦略に欠けていたのだ。

 第一。南方作戦に成功し、補給路を確保すれば1年目85万 kℓ、2年目260万 kℓ、3年目530万 kℓ を確保できると鈴木企画院総裁は御前会議で発言した。

 第二。「ハワイ攻撃に成功すれば、2年間は戦える」(永野修身海軍軍令部総長)。

 第三。負けずぎらいで無類の賭事好き、大艦巨砲主義を押し切った山本五十六・連合艦隊司令長官(元帥)が真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦ともに総指揮をとった。

という状態だった。「たら」「れば」の「賭け」に近い作戦で、長期の見通しに欠いていた。


 戦争作戦の杜撰さ。

 第一。真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦の艦船を率いた南雲海軍中将は、水雷戦が専門で、航空畑の経験が浅かった。

 第ニ。結果、真珠湾攻撃では石油備蓄施設、修理施設に軽い損害しか与えず、ミッドウェー海戦では戦力が分散したまま戦った。

 第三。ミッドウェー海戦の戦力分散。海軍はアメリカが太平洋で展開できる空母は3隻と見込んで、戦力を4分割した。ミッドウェー作戦(主力空母4、改装空母1、航空機263)、ホートモレスビ作戦(主力空母2、小型空母1)、アリューシャン作戦(小型空母1、改装空母1)、後続艦隊・上陸部隊(小型空母2)。ところがアメリカは主力空母3に新装空母3、航空機233でミッドウェーに現れた。

 第四。ミッドウェー海戦の作戦。艦隊攻撃かミッドウェー上陸か最後まで作戦が定まらず、特に偵察力に劣っていた。アメリカの新鋭空母にはレーダーがあったが、日本は目視。日本軍もレーダーを研究していたが、「敵の位置を探るのは『武士道』に反する」として、研究開発は中止されていた。(NHKの「ドキュメンタリー・太平洋戦争による。)

 山本五十六は「日独伊三国軍事同盟」に反対したり、「負けるとはっきり言ったほうが日米開戦を阻止できる」と考えたので、「慎重派」と言われがちだが、巷間語られる山本五十六・日本海軍と、その実像とはかなり違う。

 一方の陸軍の作戦の杜撰さ、無謀さ、酷さについて。ここでは「インパール作戦」を指摘するのにとどめておく。とにかくこの戦争で軍人・民間人あわせて、300万人(うち民間人80万人)の日本人が死んだ。日本以外のアジア全体の死者は2000万人から3000万人になる。戦争が何故起ったのか。どうすれば繰り返さずに清むのか。これを考えるのが、膨大な死者に報いる道だと僕は強く思う。

 なお、この時代の斎藤茂吉とその作品については岡井隆著「茂吉の短歌を読む」の「昭和前期の茂吉」に詳しく、8ページの資料1が参考になる。



付記:参考文献・中村政則著「昭和の恐慌」、大江志乃夫著「天皇の軍隊」、江口圭一著「15年戦争の開幕」、藤原彰著「日中全面戦争」、木坂順一郎著「太平洋戦争」、江口圭一著「二つの大戦」。





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