島木赤彦。僕が初めて覚えた近代短歌の歌人だった。無論その作品とともに覚えたのだが、肝心の作品は忘れてしまった。たしか小学校5年か6年の教科書に掲載されていたのだが。ただ、その作品から湧き出て来る「清涼感」のようなものはよく覚えている。
その島木赤彦はどのような人だったのか。職業が人間を作るというが、生まれ育った環境と職業、活動歴にその人間があらわれるのではないかと思う。その辺りから考えてみることにする。
「島木赤彦(1876~1926):歌人。長野県生まれ。大正期の代表的歌人の一人。本名久保田俊彦、柿乃村人などの別号がある。長野師範卒業、1903年、歌誌< 氷むろ >(比牟呂)を創刊。同年創刊の< 馬酔木 >(あしび)にも短歌を出し、伊藤左千夫に師事するようになる。太田水穂との合著< 山上湖上 >(1905)の< 湖上 >に新体詩を収録。< 比牟呂 >は、1908年創刊の< アララギ >に、翌年合併した。」(岡井隆監修「岩波現代短歌辞典」)
島木赤彦は1876年(明治9年)信州諏訪で塚原浅茅の四男として生まれた。幼名は俊彦。塚原家は高島藩の桶職の家筋だったが、父浅茅は明治維新後教員となり当時諏訪郡豊平村古田学校に勤めていた。信州諏訪は山中の一地方と思いがちだが、江戸時代は高島藩諏訪氏の城下町、甲州道中(甲州街道)の宿場町、諏訪湖沿岸の沖積平野の中心地だった。
塚原家の「桶職」というのはよくわからぬが、維新後教員になっているところを見ると、「桶職人」ではなく藩の下級武士だったのだろう。
赤彦も師範学校に進み、池田尋常高等小学校の訓導(正教員)となる。在学中に下諏訪町の久保田家の養子となり、久保田政信の長女うたと婚約。久保田家は高島藩に仕える傍ら当主が四代続けて寺子屋師匠をしていた。藩に仕える下級武士の家柄、父も養家も教育者。これが縁だったのだろう。
師範学校の同期に太田水穂がおり、共著「山上湖上」をのちに刊行する。小学校で担任学級の生徒が死去。「弔生徒北条伝死歌並反歌」を作り、のちに学校の「同級会誌」に掲載された。
新聞「日本」の短歌募集に応募し正岡子規に一首選ばれる。こののち諏訪地方で文学活動を行い、1903年に歌誌「比牟呂」を創刊するかたわら東京の根岸短歌会との交流を始める。
1909年に「比牟呂」は「アララギ」に合流。伊藤左千夫に師事するが、作品の批評をめぐって伊藤左千夫と対立。いくつかの伏線があったものの、1911年に伊藤左千夫と斎藤茂吉の対立に、島木赤彦が茂吉に加担することによって、火種が大きくなる。翌12年には若い同人と伊藤左千夫の対立が激しくなり、「アララギ」廃刊が話し合われたが、島木赤彦と斎藤茂吉が協力し刊行続行を決める。
1913年。伊藤左千夫が死去。古泉千樫ついで斎藤茂吉が発行人となったが、1914年12月、島木赤彦は諏訪を去り東京小石川区白山に転居。以後1926年に51歳で病没するまで「アララギ」編集発行人を務めた。
島木赤彦の作品には緊張感と冷涼感がある。故郷・信州諏訪の風土の中で培われたものだが、それだけでなく赤彦の資質があらわれている。かなり以前の記事(「写生論アラカルト」のいくつかの記事)のなかで島木赤彦の写生論を士族的と書いたが、それである。
こういう略歴からは、律儀な反面頑固な人間像が見える。
まず律儀さ。伊藤左千夫がこの世を去ったとき赤彦は諏訪郡視学だったが、これを辞し上京し「アララギ」の編集発行人となった。視学といえば訓導(教師)の管理職だった。長野という教育県で、出世の道がひらけていた。それを投げ打って上京したのだ。
次に頑固さ。著書「万葉集の鑑賞と其の批評」では、万葉歌人の年代を無視して作風で歌人の時期を区分した。(文庫本解説でも「無茶」と言われている。)
また「結句を字余りにすると重厚になる」という持論を持つや実作に応用した。しかし今、赤彦の秀歌として残っているのはほとんどが「結句7音」である。原阿佐緒と石原純の恋愛問題では、石原純を「アララギ」にとどめ、原阿佐緒をかばった自分の弟子の三ヶ島葭子までをも「アララギ」から除名した。これが「アララギ」で女性歌人が育たなかった原因だとも言われる。
だが秀歌として残っている作品は張り詰めた「生き方」が見える。自然な「暮ラシ方」と苦悩に満ちた「生キ方」の相剋。この認識を持つことこそが、斎藤茂吉との共通点であり、伊藤左千夫との和解し難い「距離」だった。
「個人の長所は同時に短所である」とはよく言われることだ。こういう人間の葛藤(当時の言葉で言えば「獣性」・岡井隆による)を美しく歌い上げたところに島木赤彦の作品の特長があると言えよう。
なお「士族的」ということについて、「島木赤彦」(丸山静・上田三四二・著)に次のような記述がある。
「< 人文的傾向 >とか< 理想的性情主義 >とか、漠然とした意識のもとに、新しい人間観が定立されようとする。< 豪骨なる信州の士気を重んじ >て< 深くもお考えにならないで >婿入養子をしてしまった。」
信州は片田舎ではない。明治後期から繊維工業が栄えたが、それを準備する下地が幕末からあったのである。下級とはいえその地の士族の家に生まれ、婿入先もそういう家だったとすれば、「みちのくの農の子」の斎藤茂吉や、都会的な土屋文明と違った作風になったのは当然だったのだろう。
なお上京後、しばしば出版社の求めにより吟行を行い、同じ題材で斎藤茂吉との競詠をした。また斎藤茂吉が病に伏すと島木赤彦が見舞い、島木赤彦が世を去ったときは斎藤茂吉が「島木赤彦臨終記」を執筆している。斎藤茂吉の「赤光」と島木赤彦・中村憲吉共著の「馬鈴薯の花」は同じ1913年(大正2年)に出版されている。
斎藤茂吉とは、友人であり好敵手でもあったと言えよう。この二人によって、「アララギ」の「歌壇制覇」がなされる。