歌人にはそれぞれ「代表歌集」というものがある。齊藤茂吉の「赤光」「白き山」・佐藤佐太郎の「帰潮」・宮柊二の「山西集」・近藤芳美の「埃立つ街」。
「赤光」は近代人の自我を見事にあらわし、文壇にも影響をあたえた。明治維新をへて市民社会が成立した時代を切り取っている。
斎藤茂吉の「ともしび」は、戦前の作品を集めて戦後に出版された。茂吉がヨーロッパ留学から帰って、自宅病院の全焼・火災保険切れのための金銭的困窮・病院再建のための金策・養父の死。悲しみのどん底の心境を、戦災の焼け跡に暮らす人々の心を打つのに十分だったにちがいない。第一回読売文学賞を受賞した理由もこのあたりにあったのだろう。
佐藤佐太郎の「帰潮」は戦後の作者自身の「貧困の悲しみ」が主題だが、同じ体験をした読者の心を捉えた。第二回読売文学賞受賞。主題は「ともしび」と似ているが、茂吉とは明らかにちがう。「ともしび」と「帰潮」の比較は、斎藤茂吉と佐藤佐太郎の比較検討にふさわしいと、僕は思う。
宮柊二の「山西集」は、従軍して死地をかいくぐった戦争体験者の心情をとらえてあまりある。この年、神奈川新聞歌壇の選者となる。
近藤芳美の「埃立つ街」は戦争中ひそかに胸の奥にしまっていた「思想」の表現であろうし、斎藤茂吉の「白き山」は敗戦に打ちひしがれた心を捉えるに十分である。
岡井隆らの「前衛短歌」は第二芸術論への回答の一つの試みだろう。戦争と第二芸術論なくば、「前衛短歌運動」も始まらなかっただろう。
ここに挙げた歌集の作者・歌人の視点は全く違っている。だが共通しているのは、その時代の読者の心を捉えるに足る作品を残したということである。当然、歌集や作品の主題も明確である。(この点について「ともしび」についての認識をあらためざるをえない。)
「短歌の時代性」というと「社会詠・時事詠」のことを指す場合が多いが、こうしたものもまた、別の意味での「時代性」と言えまいか。
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